私は長い間、ロシアの文豪トルストイの作品群とは距離を置いて思索してきた。なぜなら、彼の農民学校の運動や、私有財産の否定、そしてガンジーに受け継がれた無抵抗主義もさることながら、その純粋さにある危険のなものの兆候を嗅ぎ取っていたからだ。
宗教にせよ、麻薬にせよ、テロにせよ、何かをを唯一絶対の基準として信じることのできる人間は元来純粋で、勤勉なものである。だからこそ純粋な人間は純粋な善人にもなれば、また純粋な悪にもなることができる。昔から狂人と聖人は紙一重などと言われる所以でもある。例えば、映画『セブン』ではブラッド・ピットとモーガン・フリーマン扮する二人の刑事が七つの大罪にまつわる難事件を捜査する。その最後の殺人現場へ向かうシーンで犯人は自分は神の手足となって犯行を行っているのだと告げるセリフが極めて印象的である。
さらにそうした文学や芸術が政治と結びついたとき自体はより深刻さを増す。人は純粋に国家や民族のために死すことこそ美しいというプロパガンダを人々の心に強烈に植え付ける恐れがあるからだ。日本でも宮澤賢治、白樺派の作家などを読むと彼らの純粋さの中に潜む「悪」の存在を否応なく感じてしまう。
本作「クロイツェル・ソナタ」は作者トルストイが自分の中に潜む光と影を抉りだした問題作である。トルストイは、性的欲望こそが、人間の生活の様々な不幸や悲劇、また社会の腐敗の根源であるとみなした。彼は、嫉妬のために妻を刺し殺した男の告白を通して、欲望の三角関係に置かれた男の悲劇を生々しく描き、社会の堕落を痛烈に批判している。確かにそれだけなら巷にありふれている小説に過ぎない。しかし、この小説の本領は、この妻を刺し殺した男の言葉によって、精神的な恋愛関係や夫婦愛、そして女性の社会進出によって可能になった男女平等の結婚観に至るまで冷や水を浴びせかける強烈なアンチ・テーゼなのである。
彼にとって男女の愛とはどんなに神聖なベールで包まれようと所詮は性的なものにすぎない。そして、男は女を性的な対象と見なし、女性もまたそれを常に意識するという奴隷関係でつながれている。だがときに女性は自らの性的魅力によって男を虜にすることによって、逆に男性を支配しようと企てる。その結果、主人と奴隷の関係が逆転するということが起きる。かくして現代は女性の支配する時代なのである。
そして、ここから文明の進歩や人類愛を阻むものは真実をオブラートで包み、偽善に偽善を重ねて夫婦の契りをあたかも神聖なものであるかのように見なす偽りの道徳観なのだと結論する。女性が性的な対象であること、また女性が男性を支配する唯一の武器であることは女性が少し学問を身につけたくらいでは変わらない。そして姦淫するなかれという聖書の教えに従い生きるべきだと説くのである。
この主張に表面的に反論することは容易い。確かに世の中には性的な関係がなくても仲良く暮らしている夫婦やカップルがいくらでもいるからだ。しかし、D・H・ロレンスが『チャタレイ夫人の恋人』で描く様に、この問題の本質はひっくり返ると西洋文明の根源に性的な欲望を抑圧するキリスト教の道徳観があることを批判するファシズムの思想と相通じるものになりはしないだろうか。この作品ではチャタレイ夫人は炭鉱を所有する裕福な貴族と結婚するが、彼が戦争に従軍し負傷し下半身不随となって帰ってくる。彼女は性的に不具になった夫をどうしても愛することができない。そこに野性味に溢れ教養もある労働者階級の青年と出会い肉体的に結ばれる。やがてそれは本物の愛へと変わっていくのである。このようにロレンスは西洋文明を支えるキリスト教や民主主義の中に強者に対する弱者のルサンチマン(嫉妬)を見いだし、それを乗り越えようとしたのである。
一方でトルストイは人間存在の根底に性的欲望を見出した上で、それを否定し、そこから聖書の姦淫するなかれという教えへ向かう。そして他方でロレンスは同様に人間存在の根底に性的欲望を見出した上で、それを肯定し、キリスト教批判へ向かう。どちらもその進み方は異なるが問題の枠組みは全く同じである。つまり、彼らは否定、肯定のどちらにしろ、結局は理性を超えていく無意識の領域に対して排跪するのである。そこにはそれらを解明し、乗り越えていこうとする自己を啓蒙するいわば科学的な態度と言うべきものが欠如している。その時、近代を築いた合理的理性は、自らの過ちによって野蛮へ落ちていく。それこそ真の堕落へと。すなわち、それがヒットラーを生み出したファシズムの正体なのである。
要するに何かを自分の心の拠り所として信じ切ってしまうこと、つまり、純粋さこそが「悪」なのである。私はそれを左翼のアナーキスト(無政府主義者)にも、右翼の民族主義者やファシストの中にも同様に見出し得る。そして、我こそは神の言葉を正しく理解し、人々を導くことができると確信し、あたかも神を自己の所有物にしている宗教者にもその純粋な悪を見出す。彼らが神の教えの下に、ナショナリズムを包み隠し、朝鮮や中国の人々への攻撃的な感情を燃やすなら、彼らはもはや純粋な「悪」である。
思索者はたえず自己を疑いつつ、同時にともに戦う未来の友への信頼を燃やし続けねばならない。たとえそれがどんなに困難な時代であったとしても、決して安易に既成の理念や理論に身を任せ切ることがあってはならない。我々が求めているものとは、信仰者にとって神がそうであるように、生涯にわたって追求していくべき祈りのような永遠の対象なのだ。

悲劇的に偉大な人物とはすべて一種病的なものを持つことによって成り立っているものだ。若くして大望を抱く人よ、人間の偉大さとは病にすぎぬのだと記憶されたい。―メルヴィル『白鯨』(阿部知二訳、世界文学大系、筑摩書房、五四頁)

