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トルストイにおける純粋な「悪」―「クロイツェル・ソナタ」を通して

投稿者: akizukiseijin : 10月 14, 2009

tolstoi私は長い間、ロシアの文豪トルストイの作品群とは距離を置いて思索してきた。なぜなら、彼の農民学校の運動や、私有財産の否定、そしてガンジーに受け継がれた無抵抗主義もさることながら、その純粋さにある危険のなものの兆候を嗅ぎ取っていたからだ。

宗教にせよ、麻薬にせよ、テロにせよ、何かをを唯一絶対の基準として信じることのできる人間は元来純粋で、勤勉なものである。だからこそ純粋な人間は純粋な善人にもなれば、また純粋な悪にもなることができる。昔から狂人と聖人は紙一重などと言われる所以でもある。例えば、映画『セブン』ではブラッド・ピットとモーガン・フリーマン扮する二人の刑事が七つの大罪にまつわる難事件を捜査する。その最後の殺人現場へ向かうシーンで犯人は自分は神の手足となって犯行を行っているのだと告げるセリフが極めて印象的である。

さらにそうした文学や芸術が政治と結びついたとき自体はより深刻さを増す。人は純粋に国家や民族のために死すことこそ美しいというプロパガンダを人々の心に強烈に植え付ける恐れがあるからだ。日本でも宮澤賢治、白樺派の作家などを読むと彼らの純粋さの中に潜む「悪」の存在を否応なく感じてしまう。 

本作「クロイツェル・ソナタ」は作者トルストイが自分の中に潜む光と影を抉りだした問題作である。トルストイは、性的欲望こそが、人間の生活の様々な不幸や悲劇、また社会の腐敗の根源であるとみなした。彼は、嫉妬のために妻を刺し殺した男の告白を通して、欲望の三角関係に置かれた男の悲劇を生々しく描き、社会の堕落を痛烈に批判している。確かにそれだけなら巷にありふれている小説に過ぎない。しかし、この小説の本領は、この妻を刺し殺した男の言葉によって、精神的な恋愛関係や夫婦愛、そして女性の社会進出によって可能になった男女平等の結婚観に至るまで冷や水を浴びせかける強烈なアンチ・テーゼなのである。レフ・トルストイ

彼にとって男女の愛とはどんなに神聖なベールで包まれようと所詮は性的なものにすぎない。そして、男は女を性的な対象と見なし、女性もまたそれを常に意識するという奴隷関係でつながれている。だがときに女性は自らの性的魅力によって男を虜にすることによって、逆に男性を支配しようと企てる。その結果、主人と奴隷の関係が逆転するということが起きる。かくして現代は女性の支配する時代なのである。

そして、ここから文明の進歩や人類愛を阻むものは真実をオブラートで包み、偽善に偽善を重ねて夫婦の契りをあたかも神聖なものであるかのように見なす偽りの道徳観なのだと結論する。女性が性的な対象であること、また女性が男性を支配する唯一の武器であることは女性が少し学問を身につけたくらいでは変わらない。そして姦淫するなかれという聖書の教えに従い生きるべきだと説くのである。

この主張に表面的に反論することは容易い。確かに世の中には性的な関係がなくても仲良く暮らしている夫婦やカップルがいくらでもいるからだ。しかし、D・H・ロレンスが『チャタレイ夫人の恋人』で描く様に、この問題の本質はひっくり返ると西洋文明の根源に性的な欲望を抑圧するキリスト教の道徳観があることを批判するファシズムの思想と相通じるものになりはしないだろうか。この作品ではチャタレイ夫人は炭鉱を所有する裕福な貴族と結婚するが、彼が戦争に従軍し負傷し下半身不随となって帰ってくる。彼女は性的に不具になった夫をどうしても愛することができない。そこに野性味に溢れ教養もある労働者階級の青年と出会い肉体的に結ばれる。やがてそれは本物の愛へと変わっていくのである。このようにロレンスは西洋文明を支えるキリスト教や民主主義の中に強者に対する弱者のルサンチマン(嫉妬)を見いだし、それを乗り越えようとしたのである。

一方でトルストイは人間存在の根底に性的欲望を見出した上で、それを否定し、そこから聖書の姦淫するなかれという教えへ向かう。そして他方でロレンスは同様に人間存在の根底に性的欲望を見出した上で、それを肯定し、キリスト教批判へ向かう。どちらもその進み方は異なるが問題の枠組みは全く同じである。つまり、彼らは否定、肯定のどちらにしろ、結局は理性を超えていく無意識の領域に対して排跪するのである。そこにはそれらを解明し、乗り越えていこうとする自己を啓蒙するいわば科学的な態度と言うべきものが欠如している。その時、近代を築いた合理的理性は、自らの過ちによって野蛮へ落ちていく。それこそ真の堕落へと。すなわち、それがヒットラーを生み出したファシズムの正体なのである。

要するに何かを自分の心の拠り所として信じ切ってしまうこと、つまり、純粋さこそが「悪」なのである。私はそれを左翼のアナーキスト(無政府主義者)にも、右翼の民族主義者やファシストの中にも同様に見出し得る。そして、我こそは神の言葉を正しく理解し、人々を導くことができると確信し、あたかも神を自己の所有物にしている宗教者にもその純粋な悪を見出す。彼らが神の教えの下に、ナショナリズムを包み隠し、朝鮮や中国の人々への攻撃的な感情を燃やすなら、彼らはもはや純粋な「悪」である。

思索者はたえず自己を疑いつつ、同時にともに戦う未来の友への信頼を燃やし続けねばならない。たとえそれがどんなに困難な時代であったとしても、決して安易に既成の理念や理論に身を任せ切ることがあってはならない。我々が求めているものとは、信仰者にとって神がそうであるように、生涯にわたって追求していくべき祈りのような永遠の対象なのだ。

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なぜ聖書は永遠に読み継がれるのか―『カラマーゾフの兄弟』から『塩狩峠』へ

投稿者: akizukiseijin : 5月 16, 2009

 

1.ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』の可能性の中心を読む

ここ数年私の父は代表的な文学作品を立て続けに読んでいる。彼が作品を読み終わるたびに、私達はその本について批評し合うということを極自然に行ってきた。ある日、彼が19世紀ロシアの文豪ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読んでいるという話になったときに、こんな会話のやりとりをした。

父:「いまだいたい3分の2くらいまで読み終えたけど、一体このカラマーゾフ家の父親殺しの犯人は誰なんだろう。」
私:「もしかしてこの人かもという予想はできるでしょう?」
父:「うん、とりあえず長男のドミトリーに容疑がかけられてるけど、3兄弟のうち誰がやってもおかしくない。皆が父親を憎んでいたからね。でも、真犯人は3兄弟の他にいるんじゃないかって気もするんだ。」
私:「例えば誰?」
父:「あのスメルジャコフが怪しいね。彼は同じ父親の腹違い子なのに息子と認めてもらえず使用人として扱われてきたんだから。」
私:「そうだ、当たりだ。犯人はそのスメルジャコフだ。彼が一家の主人フョードル殺害の犯人だよ。」
父:「え、やっぱりそうか。」

いきなりここでネタばれしてしまった父の微妙な表情。だがなおも私は会話を続けた。

私:「うん、でも誰が殺してもおかしくなかったよね。実際、スメルジャコフは次男イワンに向って、あなたがそう望んだから自分が代わりに殺したのだって語るセリフがあるよね。確かにある意味ではこの3兄弟全員が犯人だった。たまたまそれを実行したのがスメルジャコフだったに過ぎないのさ。」
父:「すべての人に責任があるっていうこと?」
私:「そう刑法上の責任ではなく、倫理的な形而上学的な責任がね。」
父:「それはどういうこと?」
私:「例えば、戦後多くのナチス協力者がニュルンベルク裁判で絞首刑にされた。ただ自らはユダヤ人迫害や殺害に手を染めなかったドイツ人も何らかの心の負い目を感じざるを得なかった。いうなれば民族全体がある種の罪責感を抱えていた訳だね。それが嘘偽らざるドイツ人の戦後の姿だった。」
父:「なるほどね。よく分かるよ。戦後日本国民もある意味同じ罪責感に囚われていたからね。」

少し沈黙の時間が流れた。父はこんな話になろうとは思ってもいなかったようだった。やがて私は核心的な話を切り出した。

私:「ドストエフスキーの文学が現代の予言書と呼ばれている所以が分かったかなぁ。この物語では、我々の心の中に潜む何かがある一人をして「父」=「神」殺しを犯させた。ただ誰しも俺が手を下していたかもしれないと自分を疑ってしまう。まさしく倫理的な、形而上学的な罪責感に囚われてしまう。そして、これこそ現代におけるアメリカの9.11同時多発テロや日本の派遣労働者の若者が起こした秋葉原連続殺人事件に遭遇して、自分もそうなることを望んだと心のどこかで思ってしまう瞬間なんだ。だってこの世の中はあまりに不公平じゃないか、と。」
父:「つまり、このテーマはまさしく現代社会の問題だということ?」
私:「そう、しかもそれはたんに対岸の火事ではないし、社会の客観的な真理の話じゃない。もっと自分自身に問うべき問題だ。」
父:「一体何だっていうの?」
私:「要するに、真犯人スメルジャコフの正体はこの私だということ。いいかえればこれを読んだあなたがスメルジャコフの正体だったんだ。」

2.三浦綾子『塩狩峠』におけるキリスト教の核心

こうした会話のやりとりをした後で、私は自分自身がこう考えるきっかけをくれた読書体験のことを語り始めた。それは作家の三浦綾子の『塩狩峠』におけるまさに彼女自身の信仰告白との呼べる印象的なシーンだった。この作品は北海道の塩狩峠が舞台で駅員で敬虔なクリスチャンである永野信夫が自らの命を犠牲にして、乗客の命を救った実話をもとにしている。このシーンはまだ信仰に入る前の信夫がある伝道師から初めてキリストの教えの核心を突き付けられる場面だ。

私:「主人公信夫はキリスト教伝道師伊木一馬を自宅に呼んで、イエスこそ人格を超えた神格を備えた存在であることを信じると告白する。無実でありながら十字架に架けられ、しかも自分を殺そうとする人たちのために《父よ、彼らを許し給え、その為す所を知らざればなり》と祈ることができる。この人こそ神の子であると深く感動したんだ。」
父:「それでキリスト教信者になったの?」
私:「いや、まだ。彼は伊木伝道師にこう問われるんだ―《しかしね。君はひとつ忘れていることがある。君はなぜイエスが十字架にかかったかを知っていますか》。それに対して信夫はこの世の罪を背負うためにと答える。そして伊木はこう告げる―《そうです。そのとおりです。しかし永野君、キリストが君のために十字架にかかったということを、いや、十字架につけたのはあなた自身だということを、わかっていますか》と。」

ここで父はコーヒーを入れるために少し休憩をとった。やがて、キッチンから彼が戻ってきて、チョコレートと一緒にブラック・コーヒーを運んできた。それを飲みながら、父は満足そうにして、やがて私の方に向き直った。

父:「それでどうなったの?」
私:「信夫ははじめどうしてもそれが信じられないんだよ。自分はそんなことした覚えはないと言ったら、それじゃあなたはキリストとは何の縁もない人間ですって、ばっさり切り捨てられちゃって。この重要な対話部分を読み上げてみるね―《先生、ぼくは明治の御代の人間です。キリストがはりつけにされたのは、千何百年も前のことではありませんか。どうして明治生まれのぼくが、キリストを十字架にかけたなどと思えるでしょうか》、《そうです。永野君のように考えるのが、普通の考え方ですよ。しかしね、わたしはちがう。何の罪もないイエス・キリストを十字架につけたのは、この自分だと思います。これはね永野君、罪という問題を、自分の問題として知らなければ、わかりようのない問題なんですよ(略)》。」
父:「信夫は自分自身をさほど罪深いとは思っていなかったわけだね。」
私:「そう、でもここからが大切なんだ。キリストの処刑を自らの犯した罪と受け止めることによって、人は時代と空間を超えて、古代のイェルサレムでのイエスの死に立ち合うんだ。そうすることによって、キリストの存在は彼らにとって遠く離れた昔の出来事ではなくて、今・ここで起こっている出来事に変わるんだ。こうして人々がこの出来事に自ら罪びととしての意識を持って同時代性を感じ続けるからこそ、キリスト教の聖書は永遠に生き生きとし、人々に読み継がれていくんだ。」

3.なぜ聖書は永遠に読み継がれるのか

二人の話はとうとう架橋に差し掛かりつつあった。父もだいぶ疲れ始めているので、私はこれまでの話をここでまとめて切り上げようと思った。実際彼の瞼はもう閉じそうになっていて、ゾンビと深夜二人で話しているような孤独な心境だった。

私:「キリスト教は、この罪という概念によって、同時代性=永遠性を獲得したんだ。時空間を超えて、読み手がこの出来事を自分自身の問題として受け止めるからこそ、キリスト教の聖書は永遠に古びることがない。この内(この世)と外(あの世)とを繋ぐ回転扉のような聖書という不思議な書物は後にも先にも現れないだろうな。これこそ人類史上普遍の傑作であり、後のダンテやゲーテ、そしてドストエフスキーに至るまで今日の文学はこの形式を反復しているに過ぎないと言うこともできるからね。」
父:「(半分眠りながら)なんか難しくなってきたね。つまりどういうこと?」
私:「まあ要するにいつも言っていることだよ。つまり、文学であれ歴史であれ本を読むときには、それを単にストーリーや内容を追うものとしてではなく、自分自身だったらどうするかという主体性が大切なんだよ。だってあらゆる偉大な書物はこれはお前のことだよって挑発しているんだからね。その挑戦にどう応答するかが読書の醍醐味じゃないのかな。」

父は眠気で恐ろしい顔になり始めた。何だか心配で話に集中できない。

父:「ああ、自分に置き換えて読めということだね。」
私:「そう。文学でも科学でも、今流行っていることを書くのが真理の探究じゃない。ましてや、終わったことをつらつら書くのが歴史じゃない。むしろ、いま・ここで生きているこの私が、過去や現在そしていまだ来らぬ未来の現実を必然としてではなく、自由として捉えられるか。いいかえれば事後的に固定したものではなく、事前的に変化し得るものとして捉えるかで歴史の見方は大きく違ってきてしまう。もしそう考えられたなら、なぜ、どのようにして、このような現実が生まれたのかを把握した上で、これを変えていくことは可能かと考え、そしてもう一つの現実へ向かって行動していくことができる。あの随分眠そうだけど大丈夫?」
父:「う、うん。でも難しいよね。学校で教わる歴史って昔の話をただ暗記しているだけになりかねないからさぁ。」
私:「確かに我々は歴史というものを過去、現在、未来という連続した直線のように考えがちだけど、しかしキリスト教は「罪」という概念を軸にして、キリストの死を自ら身に引き受けることによって、現代に生きるているはずが何千年前の処刑の場面に一瞬タイムスリップしてしまうんだ。さらに、真のキリスト教徒であれば未来さえもいま・ここと質的に並び立ったものとして眺めることができる。だって、過去が過去として固定されていず、こちらの主体性によって変化するものならば、未来も固定したものではなく、我々の係り方如何によって変化するものとなるはずだからね。キルケゴールはこのように罪を引き受けた瞬間に過去とも未来とも同時代性を感じてしまう時間の係り方を永遠と表現したんだ。」

しばらく沈黙があった。なぜか私の方が取り残された様な妙にシュールな気分を味わう。すると次の一瞬、父は夢の世界からこの世界へ舞い戻ってきて何かしゃべった。

父:「うん・・・そうか。」
「もう少し厳密に言えば、これはキリスト教の中でもさらに新教(プロテスタント)特有の視点であるという気がしてならないよ。なぜなら、カトリックや特にユダヤ教は本質的に過去に現れた救世主(メシア)への繋がりを持ち続けている。それに対して、プロテスタントのエッセンスは本質的に過去ばかりでなく未来へと質的に飛躍(ジャンプ)することによって永遠とかかわることなんだ。いずれにしてもこの時期、信仰者にとって普遍的な倫理(神)は存在するかという宗教改革の問いは、科学実験による普遍的な真理の探究とも並行している。そして同じ時期にこのプロテスタンティズムの倫理が資本主義の精神になったことも忘れてはいけない。確かに資本主義は、お金を今すぐ使ってしまうのではなく、自分や会社の事業拡大のために投資し、未来においてその何倍もの利益を生み出そうとする特徴がある。ただ、これは社会を進歩させもするけど、逆にそれが加速化すれば目先の利益を追求するだけに陥る。この意味で先のウェーバーの表現をもじって言えば、現代はプロテスタンティズムの倫理なき資本主義に陥っている。このまま本当にこの先やれるのか心配だよ。今後は文明史的立場からこの科学と資本主義に立脚した国民国家のゆくえを宗教を軸にして再吟味してみたいと思うんだ。」

気づくともう父はソファで寝入っていた。私の半分ほど残ったコーヒーも冷めてしまっていた。「キリストを殺したのはあなただ」という声だけがいまだ残響のように耳に響いていた。

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ハーマン・メルヴィル『白鯨』を読む

投稿者: akizukiseijin : 5月 7, 2009

square悲劇的に偉大な人物とはすべて一種病的なものを持つことによって成り立っているものだ。若くして大望を抱く人よ、人間の偉大さとは病にすぎぬのだと記憶されたい。―メルヴィル『白鯨』(阿部知二訳、世界文学大系、筑摩書房、五四頁)

この四方に偏満する民主的尊厳の尽きることのない光源こそは、神自身なのだ。絶対の神こそが、あらゆる民権の中心であり周辺であり、、神の遍在こそが、われわれの神聖なる平等となるのである。―メルヴィル『白鯨』(阿部知二訳、世界文学大系、筑摩書房、七七頁)

1.アメリカ文学のルネッサンス

一八五一年に発表されたハーマン・メルヴィルの『白鯨』は、アメリカに潜む理想と狂気、そしてその無意識(エス)に潜む何かをあたかも精神分析にかけて明るみに出すかの如き傑作である。

そこに描かれる中心的なモティーフはモーヴィ・ディックと呼ばれる巨大な白鯨とかつてその鯨によって自らの片足を奪われたエイハブ船長との復讐劇である。その冷静な殺人鬼にも似た妄念に突き動かされる船長とそれに巻き込まれていく捕鯨船の乗組員との協同と確執そして悲劇が一人のイシュメールという流れ者の船乗りの視点から淡々と描かれていく。

この地の果てに及ぶ航海を共にする我々読者はまた、随所にちりばめられる鯨についての百科全書的な説明、哲学的な語りやセリフ、そして突然演劇が始まる場面に遭遇して面喰ってしまうだろう。これは従来の小説の範疇に収まらない。D.H.ロレンスは『アメリカ文学論』の中で、アメリカのメルヴィルを、ロシアのドストエフスキー同様に、古いヨーロッパの抑圧的な表現空間を打ち破る新たな世紀の文学として位置付けている。

2.宗教と死の欲動

私がこの作品を読んだのは2001年9.11の同時多発テロ以降に、復讐に燃えて、アフガン、イラクへと進行を開始するブッシュ政権に、エイハブ船長の面影を重ねていた頃であった(実はこの時期ロシアとイギリスの間でこの地の覇権をめぐって第一次アフガン戦争があり、小説の中にも「アフガニスタンにおける血なまぐさい戦闘」という新聞記事がある)。なぜならここにはアメリカがその後何度でも繰り返す歴史の反復の原型があると私は認識したからだった。神への信仰のためにメイフラワー号に乗ってアメリカの地に降り立ったピューリタンたちの平等な信仰共同体は、ときに約束の地を知っていると騙る盲目の老人によって崖へと導かれてゆくかの様である。まさに破滅へと。

しかし、崇高な民主主義の理想に燃えるピューリタンたちの信仰共同体として建国されたアメリカがなぜグローバルな平和(パックス・アメリカーナ)をもたらすどころか、冷戦、ベトナム戦争、9.11同時多発テロ、アフガン、イラク戦争、そしてサブプライムショックに至る混乱を世界にもたらし続けるのか。それは単に覇権国家システムの成熟と崩壊という以上の説明を要するのではないだろうか。

このモーヴィ・ディックと呼ばれる白鯨への復讐劇に見事に象徴されているように、アメリカ的な友愛で結ばれた信仰共同体、神の下での民主主義の底にあるのは宗教によって抑圧された様々な人間のリビドーである。例えば無垢であろうとするがゆえに、信者は性的な欲望を無意識の世界に抑圧しなければない。ときにはそれはサタンとなって信者を誘惑する。だが、その中で最も抑圧しなければならないのは、「汝殺すなかれ」という十戒に刻まれた善悪の掟の彼岸にある、死の欲動(人間の攻撃性)である。人間とは他人を殺し得る生き物である。それを罪の観念で蔽い、逆に照射することで神への畏敬の念が生まれるのである。

だから人間は死を恐れつつ、死に魅せられている。本来、死(崇高)という領域へのおそれとおののきがなければ宗教はそもそも存在しない。いまでもユダヤ教における供犠の羊、キリスト教における十字架で磔にされたイエスの死によって、はじめて共同体は死を記憶として共有することによって死後の世界(神)とのつながりを感知する。つまり、様々な宗派が道徳的な仮面の下に抑圧している宗教の宗教性こそこの死の欲動(人間の攻撃性)なのである。まさしくこの作品では、船乗り(人間)/エイハブ(死の欲動)/白鯨(神)という構造の中で、エイハブ船長はこの人間と神の道徳的で安定的な関係を破壊する「他者」(the Other)として現れるのである。ここにこの作品を読み解く最大のポイントがある。

3.文明と宗教の弁証法

晩年フロイトはこの死の欲動を研究し、それが外へ向かえば他者を傷つける攻撃性となり、内に向かえば責め苛まれるような良心の呵責になると考えた。それに基づいて彼は良心(超自我)とは社会の規範を内面化したものではなく、この死の欲動が内向化した結果だというコペルニクス転回を行う。そして、この文脈からフロイトは第二次大戦を前に他国から押し付けられたものとして批判されたドイツのワイマール憲法が実はドイツ人自身の中から、それこそ死の欲動の内向化として生まれたのだと考えて護憲平和を訴え続けた。彼は人々が徐々に人間の攻撃性を自己を抑制する力に変え、文化を発展させていくことに希望を賭けたのである。

だが悲劇的にも、現代文明は国民国家を構成していた諸民族の力が蘇生し、死の欲動がふたたび人々を紛争や経済的混乱へと引き摺り込もうとしている。いまや文明の衝突が叫ばれて久しい。確かに戦争は文明化のプロセスに拍車をかけるきっかけとなることが事実だとしても、その惨禍を座視することはできない。私もまた人類の歴史は文明化のプロセスを辿ることを疑わない。ただし、すべての人々が第三次大戦で滅んだあと永久平和が達成されても意味はない。

今後究極的には世界連邦が達成されるまで、不均等に発展する文明間のバランスを保ち、対立を回避する国際的な枠組みやコンセンサスを創り上げる必要がある。そのためには国家に過度に依存しない市民の分散型コミュニティーを社会の中にいくつも作り上げていくべきだ。フロイトは宗教の社会運動的な側面を軽視したが、トインビーはむしろ宗教を文明の揺籃の場だと述べている。したがって現実的には、新しい文明が生まれるその時まで、現在の資本制経済の功利主義的道徳を批判できるのは、おそらく多かれ少なかれキリスト教的な色彩の強い「奉仕」や「福祉」の精神に基づくもの以外にはあり得ないだろう。

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キリスト教の根源―ヨブ記論

投稿者: akizukiseijin : 12月 15, 2008

もし、キリスト教とは何か、宗教とは何かと問い尋ねる人があれば、旧約聖書のヨブ記を紐解くべきである。ヨブ記は神学的、哲学的、文学的に様々な論点を含んでいる作品であるが、中心となるモティーフは一貫している。すなわち、「神がいるならば、なぜ正しい人が苦しまねばならないのか」という神義論の問いである。

ヨブはウツと呼ばれる地に住む敬虔な信者で、子宝や財産に恵まれ幸せに暮らしていた。ところがある日、神のもとに現れたサタンが、彼からすべてを取り去ってしまえば信仰も消えうせるだろうと唆(そそのか)した。神はヨブの信仰を試すために命を取らないことを条件にそれを許した。サタンによって、ヨブはすべての子供たちと家畜を失ってしまうが、神に対する忠誠を曲げなかった。だが、ふたたびサタンは神の許しを得て、ヨブの体中を悪性の腫瘍によって苦しめた。そしてついにヨブは灰の中から立ち上がり神への呪詛を口にするのだった。

私の生まれた日は滅びうせよ。
「男の子が胎に宿った。」と言ったその夜も。
その日はやみになれ。
神もその日を顧みるな。
光もその上を照らすな。
.…
なぜ、苦しむ者に光が与えられ、
心の痛んだ者にいのちが与えられるのだろう。
死を待ち望んでも、死は来ない。

私には安らぎもなく、
休みもなく、いこいもなく、
心はかき乱されている。※1

この光景に愕然としたヨブの三人の友人たちは次々に反論する。良い行いをすれば神に祝福され、何らかの原因があるからこそ罰せられる。こうした因果応報の考えに基づき、エリファズはヨブが神の教えに背くようなことをしでかしたのではないかと責め立てる。それなのに、神への呪詛を口にするとは何たることだと。神は完全で、人間は不完全なのだから、自らの過ちを悔い改めるべきであると主張するのだった。その友人の一人エリファズの弁論を引用しよう。


さあ思い出せ。
だれが罪がないのに滅びた者があるか。
どこに正しい人で絶たれた者があるか。
私の見るところでは、不幸を耕し、
害毒を蒔く者が、それを刈り取るのだ。
彼らは神のいぶきによって滅び、
その怒りの息によって消えうせる。※2

それに対し、こうした友の批判は苦しむヨブの耳には届かない。むしろ彼は次のように友人たちに弁論する。


もし、あなたがたが、
事の原因をわたしのうちに見つけて、
「彼をどのようにして追いつめようか。」
と言うなら、
あなた方は剣を恐れよ。
その剣は刑罰の憤りだから。
これによって、あなたあがたは
さばきのあることを知るだろう。※3

なぜあなた方は私にその責めを負わせようとばかりするのか。なぜなら、どんなに我が身を振り返ってみても、ヨブは神の教えに背くことなどはした覚えがない。それなのになぜ私がこれほど苦しまねばならないのか。彼の懐疑はより本質的である。つまり、自分はできるだけ正しく生きてきた。そして、ある日突然不幸に見舞われた。もし、神がいるなら、なぜ正しき人が罰せられ、神に逆らう人が幸せに暮らしているのか。一体、神の義は何処にあるのか。

やがて、神が嵐の中から現れる。神はヨブの激しい言葉を非難し、人間の卑小さを強調する―「知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか」。なおも神はヨブに次のように迫る。


さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。
私はあなたに尋ねる。私に示せ。
あなたはわたしのさばきを無効にするつもりか。
自分を義とするために、わたしを罪に定めるのか。
あなたには神のような腕があるのか。
神のような声で雷鳴をとどろき渡せるのか。※4

人間は知識もないのに、神の御心や摂理を推し量ることなどできはしない。そして何よりも、自分に非がないないからといって、神に非があるなどと疑うのか。それそこ人間の傲岸不遜な振る舞いであると。

ヨブは自らの小ささに恐れ入り、今までの言動を恥じる。

あなたには、すべてができること、
あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、
私は知りました。
知識もなくて、摂理を覆い隠した者は、
だれでしょう。
まことに、私は、
自分で悟りえないことを告げました。
自分でも知りえない不思議を。
どうか聞いてください。私が申し上げます。
私はあなたにお尋ねします。
私にお示しください。
私はあなたのうわさを耳で聞いていました。
しかし、今、この目であなたを見ました。
それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。※5

かくしてこの物語は神がヨブを諌め、友人の言を正しいと見なして祝福して終わるのかと思われた。ヨブは愚かにも、人間の浅はかな知恵で、全能の神を非難したからである。

しかし、この物語の結末は、逆の展開を迎える。実は、神が最も怒っていたのは、ヨブではなく、その友人たちの言動に対してであったのだ。その象徴的ともいえるのが、ヨブに語り終えて後その友人のエリファズに向けて語られた神の次の言葉である。


私の怒りはあなたとあなたのふたりの友に向かって燃える。
それは、あなたがわたしについて真実を語らず、わたしのしもべヨブのようではなかったからだ。
今、あなたがたは雄牛七頭、雄羊七頭を取って、わたしのしもべヨブのところに行き、
あなたがたにために全焼のいけにえをささげよ。
わたしのしもべヨブはあなたがたのために祈ろう。
わたしは彼を受け入れるので、わたしはあなたがたの恥辱となることはしない。
あなたがわたしについて真実を語らず、わたしのしもべヨブのようではなかったが。※6

ではなぜ神を批難したはずのヨブが正しいとされ、神を弁護したはずの友人が糾弾されなければならなかったのか。

その理由はおそらく、神の義をめぐって、友人は道徳論に終始したのに対し、ヨブは矛盾に直面して道徳がもはや通用しない領域に神の御心を求めたからである。一方の友人たちは今回の苦難をあくまで原因と結果という合理的な観点から断罪したが、他方ヨブは自らの信仰に一点の曇りもないことを確信しつつ、何の理由もなく降りかかった災難に向き合い神を求め続けた。いうならばヨブの友人は罪もない人が苦しんでいるというこの世界の不条理さを道徳の観点から同情しているだけであり、それゆえ身の潔白をヨブが主張すると敵になった。彼らには理解し得ていなかった、この世の中において、何の罪がなくても不幸な出来事は起こり得るということを。この善行と幸福の無関係、神と人との断絶こそキリスト教が導き出した究極の答えなのである。

この物語に示されている教訓は、人間が宗教と道徳を履き違えているということだ。そのため、神の義に目を背け、簡単に他人に同情したり、逆に見下したりしてしまう。宗教と道徳が二つの異なる次元にあることは次の例によって証明される。たとえば道徳では良いことをすれば褒められる。また、善き父母であることは、同時に社会的に立派な大人であると見なされる。いずれにせよここには等価交換が成り立つ。逆にいえば、この等価交換が成り立つからこそ、良いことをした人は社会から賞賛され、そうでない人は社会からバッシングされる。それに対し宗教ではそうした等価交換は成り立たない。たとえばアブラハムは神の言葉を信じて、一人息子イサクを燔祭のいけにえに捧げようとした逸話は有名である。これほどまで信仰篤き人である彼は、しかし社会的にみれば単なる犯罪者である。宗教においてときに犯罪者と聖人は逆説的に結びつく。日本でかつて弾圧されたキリシタンも、今ではローマ教会によって聖人に列せられている。

先ほども少し触れたが、そもそも神と人間の間に断絶を見ることがキリスト教の要諦である。したがって、キリスト教神学の父アウグスティヌスが述べるように、人間がどれだけ努力しても、救われるか否かはすべて神の恩寵にかかっている。この人間と神の到達不可能性ゆえに、人は信仰に至るまでに様々な受難に遭遇する。だから信仰をもっていないヨブの友人たちは、「神がいるならば、なぜ正しい人が苦しまなければならないのか」という疑問は抱かない。ヨブの如く真に神を信じているがゆえにこの世の不条理に立ち向かわざるを得ないのである。これを知る者のみが「同情」を超えて「愛」に達することができる。母と子のように条件付きの愛ではなく、それこそ無償の愛へと。

事実、ヨブは結末でこれまで失ったものをそのまますべて取り戻すことができる。すなわち、亡くした息子と娘たちに加えていままでの二倍の財産を。こうした奇蹟こそキルケゴールが「反復」と呼んだものである。それは確かに信仰なくしてはできないことだが、その意味を今後は哲学的に明瞭にしていきたいと考えている。

最後に、「事実は小説よりも奇なり」という言葉に従って、「宗教は道徳よりも奇なり」という言葉をここに書き記しておきたい。一般に事実というものは矛盾や逆説だらけで、小説のように美しい話にはおさまらない。だからこそ本質的な作家は、これに抵抗し、自らを突き放してくるかのような体験に「文学のふるさと」(坂口安吾)を見出すのだ。あたかも、恐ろしい姥捨て山に捨ててくれと息子にせがむ母親のように、「道徳観念」(ヒューマニズム)を突き放したところに人間のリアリティ(事実)を追求する如くに。同様に、我々も一介の道徳家から出発して、いつかは善と悪の彼岸を越えて、普遍的な事実の認識へと辿り着きたいものではないか。

おそらくこうした険しい人生行路を歩む過程で、ヨブ記はまさに最良の導き手である。ヨブ記はキリスト教の深奥を文学を通して、そして文学の深奥をキリスト教を通して解き明かす。そしてここで開示された<宗教>の領域は我々の思索と想像力を永遠に掻き立てる何かであり続けている。

 

(注※)

1.ヨブ記 、第三章、第三節~第26節、(日本聖書刊行会『聖書』、新改訳、一九五四年)
2.同書 、第四章、第七節~第9節
3.同書、第一九章、第二八節~第二九節
4.同書、第四〇章、第七節~第九節
5.同書、第四二章、第二節~第六節
6.同書、第四二章、第七節~第八節

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第5部 チェーホフのドラマツルギー―人間の複数性について

投稿者: akizukiseijin : 5月 29, 2008

私の知る限りチェーホフと同様に人間や現実に潜む多様性を「関係の偶然性」という観点から眺めた作家が日本にいるとしたらそれは夏目漱石である。それは彼の半自伝的な作品『道草』の中で典型的に示されている。漱石こと健三は、海外留学から帰ってきて、大学の教師となったが、そこへかつての養父島田が金を無心にくる。彼と出会うたびいやな胸騒ぎがする。

なぜなら、幼年時代養父母に育てられ、実の両親を祖父母だとおもって成長してきたかつての自分の不安が蘇ってくるかのようだからである。以来、彼はどうしても親と子の関係性における確かさの感覚が持てなくなる。人間が最初に生まれおちてくる家族関係の中において、自分はここの家の子であるという誰でもが持つ自己同一性(アイデンティティ)が健三には最初から奪われている。

したがって、『虞美人草』や『こころ』などの漱石の小説は、つねにある碁盤の目の中でチェスの駒として存在する登場人物と登場人物がたまたま与えられた役柄に基づいて、徐々に人物の意外な側面を浮き彫りにし、ドラマに動きや奥行きを持たせていくという構成をとっている。それ自体きわめて「劇」的であると言える。たとえば、『虞美人草』や『こころ』で描かれているのは、個人の恋愛感情に特殊な磁場を及ぼす「三角関係」である。そして『三四郎』では、チェーホフのことに何度か触れられていることも付け加えておきたい。

しかし、こうした二人の類似性は、漱石がチェーホフに影響されていたか否かではなく、彼がまさに当時の自然主義文学とは違う「リアリズム」を模索していたことに由来している。むしろ彼らに共通するのは、まるで自然科学者のような微細な観察者の眼である。『道草』の最後では健三に、チェーホフを思わせる次のような言葉で締めくくらせている―「世の中に片付くなんてものは殆どありゃしない。一遍起こった事は何時までも続くのさ。ただいろいろな形に変わるから他にも自分にも解らなくなるだけの事さ」。

漱石の文学はその多くが人間の内面性を扱っているが、それを人間に備わっているものとしてではなく、関係が変わることによって変化するものとしてとらえている。だから、読んでみると始めから終りまで主人公の内面に感情移入していく意味での快楽はない。むしろ視点が次々に移り変わって、まるで落語の寄席を聴いているような楽しさが感じられる。

ではいったい彼らは人間社会の構造というものが確固としたものではなく、それ自体不安定な偶然的なものであるという認識をどこから得たのだろうか。もちろんいわゆる近代文学への批判という共通の問題意識があったであろう。それに加えて、チェーホフやクンデラや漱石が二つ以上の国の間で生きて考えたコスモポリタン(世界市民)であった事実である。マルクスが観念論の隆盛するドイツを離れ、経験論を重んじるイギリス渡り二つの国の間で『資本論』を書いたように、私は私であるということや机は机であるという自己同一性(アイデンティティ)の自明性は、別の文化や言語に身を置いてはじめて根底から疑うことができるからである。

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第4部 チェーホフのドラマツルギー―人間の複数性について

投稿者: akizukiseijin : 5月 29, 2008

チェーホフのドラマ(劇)は、こうした「関係の偶然性」に翻弄されながら生きていかなければならない人間の存在を描いている。まさにその人間存在の寄る辺なさは、チェコの作家ミラン・クンデラが『存在の耐えられない軽さ』と名付けた状況である。その主人公トマーシュは優秀な医者で、ドンファンであった。そして、ある出張のため訪れた片田舎で平凡なウェイトレスとして働いていたテレザと出会い、すぐさま恋に落ちる。そしてお互いが釣り合わない恋に戸惑いながらも二人で暮らし始める。

まもなくして一九六八年のプラハの春を境にして生活は一変し日々の行動や言葉が監視される。テレザとの恋のために、亡命せずチェコで暮らし、とうとう医者という天職をも捨てる覚悟をする。トマーシュは言う。人生はたった一度きりだ、その意味で結果は後にならないと分からないが、自分は「そうでなければならない」(Es muss sein!)という運命の重しから逃れたい。そういう運命の重しと正反対にいるテレザとの暮らしに人生を賭けようと決心する。その理由は次のテレザの言葉に見事に集約されている。

「必然性ではなしに、偶然性に不思議な力が満ち満ちているのである。恋が忘れがたいものであるなら、その最初の瞬間から偶然というものが、アッシジのフランチェスコの肩に鳥が飛んでくるように、つぎつぎと舞い降りてこなければならないのである。」(千野栄一訳)

確かにこれはフィクションと現実を混同したいささかロマンチックな言動にすぎないのではないのかと疑う人もあろう。しかしこうした批判にまえもって答えるかのように、人間の生活はそもそも「小説的」構成を成しているのだと語り手は反論する。

「すなわち小説が偶然の秘密に満ちた邂逅(例えば、ブロンスキーとアンナの出会い、プラットフォームと死、あるいは、ベートーベンとトマーシュとテレザとコニャックの出会い)によって魅惑的になっていると非難すべきではなく、人間がありきたりの人生においてこのような偶然に目が開かれていず、そのためにその人生から美の広がりが失われていくことをまさしく非難しなければならないのである。」(千野栄一訳)

これを平たく言えば、二人が偶然に関係を取り結ぶことは前もって決まっている運命ではなく、われわれがよく「縁」と呼んでいるものなのである。ゆえに縁によって結びついた人間の生活の偶然性やその軽さは必ずしも耐え難いわけではない。むしろそれから目を閉ざすことこそトマーシュには耐えがたい。なぜなら未知の可能性へ向かうとき人は不安であると同時に、多様に変化し得る自分と知らない人と出会いコミュニケーションできることへの期待に胸膨らませる生き物でもあるからだ。

先の『ともしび』における《この世のことは何一つわかりっこない》という一見絶望とも希望ともとれる述懐は関係の偶然性というチェーホフの生々しい現実認識を如実に反映している。彼の劇は、ある対象に対して一つの意味づけをするのではなく、複数の対話が織りなすやり取りによってそれぞれの人物の新しい相貌が浮び上がり、それによって平凡なドラマが重層的な意味を獲得し始めるのである。

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第3部 チェーホフのドラマツルギー―人間の複数性について

投稿者: akizukiseijin : 5月 29, 2008

上記の短編『ともしび』の要約には、チェーホフ文学のリアリズム(現実主義)のエッセンスが凝縮して詰まっている。そもそもチェーホフ戯曲や短編には男女の恋愛の話がきわめて多く扱われているが、そのどれもがピースとピースが噛み合わず成就しない。いつもどこかちぐはぐで、タイミングを逸しているように思われる。そこにはシェイクスピアのロミオとジュリエットのような釣り合った男女のロマンもなく、したがって運命によって引き裂かれる悲劇もない。

むしろ、彼は恋愛というものを何か必然の出会いとして見るよりも、人と人とが偶然に出会い一つの関係を取り結ぶ一種の「劇」として見なしていたといえる。人間と人間の関係はつねに確定的なものではなく、本来劇の配役のように置き換え可能でありながら、何らかの偶然の重なりあいによって今の関係に納まっているにすぎないのではないか。しかし、そこにチェーホフは日々の生活に潜む人間の複数性の源泉を掘り当てたのである。

たとえばチェーホフは『恋について』という短編で、恋愛に象徴される人間関係のあり様を直接に主題として描いている。アリョーヒンは町で、地方裁判所の副議長ルガーノウィチと知り合いにあり、自宅に招かれる。すると、夫と親子ほども年の離れた若い妻アンナ・アレクセーエヴナと出会う。二人は中睦まじい夫婦でアリョーヒンにも親切にしてくれる。やがて彼らと親しく付き合う内に、アンナに魅かれ悩む。そして、彼は恋とは一体何なのかがまるで分らなくなり始める。彼はその時の感情をこう吐露する。

「わたしは不幸でした。家にいても、畑に出ても、納屋にいても、わたしは彼女のことを思い、あの若い美しい聡明な女性がほとんど初老といってもよい(夫は四十を越えていましたから)、退屈な男と結婚して、その男の子供を儲けているという秘密を理解しようと努め、一方では、あれほど退屈きわまる常識でものごとを判断し、舞踏会や夜会ではまるで売られに連れてこられたような従順で無関心な表情をして、誰にも必要のない萎れた姿で偉い人たちのまわりに控えている、あのお人好しで単純な、おもしろみのない男が、それでいながら、幸福になって彼女に子供を産ませる権利を信じきっているという秘密を、理解しようと努めました。わたしはたえず、なぜ彼女がわたしではなく、ほかならぬ彼にめぐり会ったのか、私たちの人生にこんなにも恐ろしい誤りの生ずることが、いったい何のために必要だったのかを、理解しようと努めました。」(原卓也訳)

アリョーヒンとアンナはお互いに魅かれあいながらも愛を打ち明けることができない。なぜなら、心の秘密を打ち明けることがお互いの運命にとって果たして良いことなのかどうか分からないからである。アリョーヒンは彼女の幸せな家庭生活に波風をたて、アンナはただでさえ気苦労の多いこの青年に不幸を増す結果にならないかと恐れたからだ。

いつしか沈黙の中で歳月は過ぎ、やがて別離のときが訪れる。夫のルガーノウィチが西部のある県の裁判所長に任じられて、その地へ赴任することになったからである。その汽車を見送る際、個室で二人の眼差が出会った瞬間、抑えていた気持ちが堰を切ったかのように溢れだす。二人は涙に濡れながら抱きしめ合いキスをして永遠に別れる。アリョーヒンは、「ああ、私たち二人はなんて不幸だったんでしょう!」と振り返る。本当に愛しているならば心配事なんて些細な問題だったろうにと。

ここにあるのも「関係の偶然性」を示す一例である。もし若い男が、釣り合いのとれた若い女と出会い恋を成就するのであれば、恋とは必然的なものであると言える。しかし、実際は、「どうしてこんな奴が!」と言いたくなるほどに、酔いどれの男に従っている女がいたり、わがままな女につくす男がいたり、そうかと思うと親子ほど年の離れたカップルがいるなど釣り合いがとれていない例は世の中では決して珍しくない。すると恋愛は誠に偶然の組み合わせであるとしか言いようがない。そこには「縁」としか呼べない何かがあるのだ。かくして彼の恋愛観に象徴されるように、チェーホフは人間というものが不意に訪れる他者との関係の中でつねに変化する可能性を秘めていることをわれわれに示しているのだ。

こうした観点を押し進めて、チェーホフは『六号室』において人間社会の偽らざる構造を抉り出そうと試みる。医師アンドレイ・エフィームイチは何度も精神科の患者イワン・ドミートリチの話を聞きに病室に通い続けるうちに今度は自分自身が精神病棟に入れられてしまう。だが実は医師アンドレイ自身が精神病患者のドミートリチとの会話でその理由を前もって予言している。

「じゃ、なぜあなたは僕をここに閉じこめておくんです?」

「あなたが病気だからです」

「そう、病気ですとも。しかし、あんたらの無学が健康な人間と病人の区別もつけられないために、何十人、何百人という気違いが自由に歩きまわっているじゃないですか。なぜ僕や不幸な人たちだけが贖罪の山羊のように、みんなの身代わりにこんなところに入っていなけりゃいけないんです?あんたや、助手や、事務長や、この病院の屑どもみんなが、道徳面ではわれわれのだれよりも、くらべものにならぬほど低級なのに、どういうわけでわれわれが入れられ、あんたらは入れられないんです?どこに論理があるんですか?」

「道徳面や論理はこの場合なんの関係もありませんよ。すべてが偶然によって左右されるんです。いれられた人は、閉じ込められるし、入れられなかった人は野放しだ、それだけのことです。わたしが医者であり、あなたが精神科の患者であるということには、道徳面も論理もなく、つまらぬ偶然があるだけなんです」(原卓也訳)

このようにゲシュタルトの地と図が反転するかの如く人間の役割がいつでも入れ換わり可能であるという事実は私を恐れさせる。パスカルがいうようになぜ私はここにいてあそこにいないのか、その根拠はどこにもない。私が平凡な男であって、犯罪者でないのはたんに幸せな偶然によってそうであるに過ぎないのではないか。たまたま貧しい生活を経験しなかったからなのではないか等々。結局は環境や状況が違えば、被害者が加害者になり、その逆もまたありえたのではないだろうか。

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第2部 チェーホフのドラマツルギー―人間の複数性について

投稿者: akizukiseijin : 5月 29, 2008

しかし、それにしても何の筋も主張もないチェーホフの戯曲や短編小説がなぜ読者を魅了するのか。まずこの核心に後期チェーホフの出発点となった作品『ともしび』に光を当てることから迫りたい。「ともしび」は、ロシアの大地に鉄道を敷設するための夜営地でわたしがたまたま一夜を明かすことになり、そこで働く技師アナニエフと鉄道学校の学生で男爵のフォン・シテンベルグと交わす会話が中心になっている。学生は、この夜営地に広がるともしびを見て次のような感慨を漏らす。

「はてしなくつづいているこのともしびが、いったい何に似ているか、わかりますか?このともしびは、僕の心に、とうの昔に死んでしまった、何千年も前の人たちとか、アマレク人やフィリスチン人の軍営のようなものとかを、思い起こさせるんですよ。(略)」

「かつてこの世には、フィリスチン人やアマレク人が生活し、戦いをまじえ、それぞれの役割をはたしていたんです、ところが今じゃ、彼らの跡さえも消えさってしまったんですからね。僕らだって同じことですよ。(略)」(原卓也訳)

こうした学生の虚無主義に対して、技師は「そういう思想はすてた方がいいよ…」と教え諭すように言う。なぜならそういう虚無だとか生のはかなさというものは人生が終わるときに見えてくるものであって、学生はまだそうした見解を抱くには若すぎるという。少しムッとした学生に対して直接には語らずに、わたしに向かって自分自身のある体験を語り始める。

それは技師がコーカサスへの旅行中立ち寄った故郷N市で幼馴染のキーソチカに再会した出来事であった。かつて可憐で仲間の憧れの的であった彼女には、いまやどこか憂いを帯びたような面影が見える。そして何よりも、母親としての忍従の表情がはっきりとあらわれ、それが少女時代から過ぎ去った月日を痛感させる。彼女は町に残った酔いどれと結婚し、男の子を出産したが一週間して亡くなってしまう。技師は彼女の家に連れていかれ、一夜のアバンチュールを夢見るが、それも所詮は儚い夢と知る。彼女はこの町や自分自身に絶望しつつも次のような言葉をつぶやく。

「人間だれしも、運命によって定められたものに、耐え忍んでいかなければならないんですものね…」(原卓也訳)

技師はこの言葉に胸を締め付けられ、彼女を彼の泊まっているホテルに連れていくと、明日の正午に町の公園で会い、明後日いっしょにピチャゴールスクへ発つことを約束してわかれる。だが、その後で言いようのない不安に襲われて結局、キーソチカを残して夕方には町を離れ、汽車に乗る。彼は苦しみ抜き、この状況において自分の思想が何の役にも立たぬことに愕然とし、次のことを悟る。

「…わたしは、自分の思想など一文の価値もないことや、キーソチカと会うまでは本当に思索していたのではなく、まじめな思想なるものが何を意味するのかという理解すら持たなかったことを、悟ったのでした。いまや、苦しみ抜いた果てに、わたしは、自分には信念も、特定の道徳規範も、人間の心も、理性もなかったことを悟りました。(中略)これまでわたしが、嘘をつくことを好まず、盗みも働かず、人も殺さず、明らかに手ひどいとわかる過ちをしなかったとしても、それは別にわたしの信念の力によるものではなく(そんなものは、もともとないんですからね)、ただ、わたし自身ばからしいと思いながら、いつしかわたしの血や肉にしみこんで、知らず知らずのうちに、人生におけるわたしの行動を支配していた乳母のお伽ばなしや、陳腐な道徳観によって、手足を金縛りにされていただけの話なのです。」(原卓也訳)

学生はこんな話で誰かを説得した気になっているかと腹立たしげに眉をひそめて自分のベッドに入ってしまう。技師とわたしの二人は夜営地のバラックを出てともしびを眺める。すると技師はしばらく黙っていたが、わたしに次のように語りかける。

「男爵先生は、このともしびがアマレク人を思いださせると言ったけど、わたしの感じじゃ、人間の思想に似てますね…そうでしょ、一人一人の人間の思想も、ちょうどこんなふうに、とりとめもなく散らばって、闇の中を一つの線に沿って、どこか、はるかに遠い老年のかなたへ消えさっているんですよ…しかし、哲学はもうたくさんですな!もう、おやすみにしましょう…」(原卓也訳)

次の朝、昨夜ともしびの輝いていた平野や、線路沿いのバラックからぞろぞろと起きだしてくる工夫たちを眺めやりながら、≪この世のことは何一つわかりっこないんだ!≫と心の中で繰り返しつぶやく。そして馬に鞭をあて、この地を後にするのである。

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第1部 チェーホフのドラマツルギー―人間の複数性について

投稿者: akizukiseijin : 5月 29, 2008

left…実際人間は何かの偶然によって不本意にも悪の世界からこの人生に呼び出されたんですからね―『六号室』より

アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフは、1860年1月17日に南ロシアの港町タガンローグで生まれた。それはロシアで農奴解放令が出される前年にあたり、まさにこの国が貴族中心の封建社会から市民平等の近代社会へと大きな転換点を迎えていた時代である。チェーホフの両親もまた農奴出身である。厳格な父親は雑貨商を営んでいたが、やがて破産し家族はチェーホフの仕送りに頼りモスクワの貧民窟で飢えをしのぐ生活を余儀なくされる。チェーホフは苦学して中学を卒業し、1879年に家族と合流してモスクワ大学医学部へ入学する。

そこでチェーホフは学費や生活費を稼ぐために通俗的な短編小説を雑誌に発表するようになる。こうして彼は徐々に作家への道を踏み出していくこととなる。若くして文壇に令名を馳せた彼を《生まれの卑しい幸運児》と呼び、彼の小説の無思想、無主義ぶりをあざける人もいたという。しかし、彼のこうした生い立ちと医師という職業、さらにのちのシベリア旅行の体験が、彼の独自な文学観を形成したことに注目しなければならい。

殊に、当時囚人島と呼ばれたシベリヤ大陸のサハリン(樺太)への受刑事情の調査は彼が自己の文学観を確立する上で決定的な出来事だったとされる。彼がこの旅行から得た確信は次の二つである。第一は、思想よりも事実への透徹した眼差しこそ重要であると認識したことである。彼はこの旅行の後手紙の中で有名な言葉を語っている―「概してロシアでは、事実の方面は恐ろしく貧弱なくせに、議論は恐ろしく豊富だ」。第二に、いわゆるトルストイ主義からの脱却である。トルストイの人道主義・無抵抗主義は確かに素晴らしいものではあるが、人間が生きるという根本的な事実を無視した空論である。人間はその悪もひっくるめて、その総体で人間であらねばならないからである。かくして、あらゆる虚飾をはぎとってあるがままに現実を描くことこそ文学の使命だという彼の独自な「リアリズム」(現実主義)はここに確立したのである。

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D・H・ロレンスとファシズムの親和性

投稿者: akizukiseijin : 11月 18, 2007

D・H・ロレンスは一八八五年九月十一日、イギリスの炭鉱町イーストウッドに生まれた。父は炭鉱夫、母は技師の娘で、教養のある女性であった。つまり、父は階級的にはプロレタリアート(労働者)、母はミドルクラス(中流階級)に属していた。彼は自らの卑しい労働者階級の出自を嫌い、そこから逃れようとしながらも、ミドルクラスの見えない天井にぶつかるようにしてふたたび堕ちていかざるを得ない。この父と母の二つの階級の狭間を揺れ動くようにして、彼の小説の主人公もまた葛藤する。

では、なぜ彼はこれほどまで自らの出自を嫌ったのだろうか。それは労働階級の中にある、弱者の強者への「怨念」(ルサンチマン)と呼べるような、どろどろとした権力への欲望が渦巻いていると感じたからである。そして後に、その他者の優越を羨み、破壊したいという欲望こそが西洋文明の二つの柱ともいえる、キリスト教と民主主義の根幹にあると見なすようになる。とりわけ彼は、フロイトの精神分析学に学びつつ、西洋文明における性の抑圧にこそ、現代人が囚われている他人への嫉妬の眼差しの原因があると考えるに至る。

ロレンスにとって精神的な「恋愛」とは偽りであり、肉体的な交わりよってのみ人は愛を語りうる。こうした即物的な関係のみを彼は真実だと見なす。それ以外の一切の意味は幻想であると。実はこのことを真に知りうるのは性的不能者である。なぜなら、肉体的にも精神的にも健全な若者は、はじめから性交の可能性を剥ぎ取られた愛があり得るかという不安に怯えることもない。もし相手を肉体的に満足させ得ないならば、愛という実体のないものは自分の傍を通り過ぎて去っていってしまうのではないかと感じることもない。それはかつて子どもを産んだ夫婦が年老いて静かに慰めあって暮らすのとは根本的に違うのである。

ロレンスの文学が極めて重要なのは、キリスト教や民主主義が世の中を覆って、大衆がはびこり、世の中が閉塞感に覆われた時代において、人間と人間の関係、そして人間と自然の関係の根底に「性」の問題点を見出したことである。「性」とは何であるか。これは現代における政治の問題であり、経済の問題であり、そして文明の問題なのである。家族をはじめあらゆる人間の諸関係の中心に「性」があるということは、言い換えれば我々は「性」の欲望を介して、「他者」(自然も含めた)と出会っていることになる。

ニーチェやロレンスの思想の根幹に弱者や大衆の嫉妬(ルサンチマン)があるとすれば、彼らが「恋愛」(特に性)に着目するのも頷けることである。なぜなら、恋愛こそもっとも嫉妬の感情が露になる場面だからだ。恋愛とは他者の眼差しと密接な関わりを持っている。いわゆる三角関係に示されるように、もっとも嫉妬に燃える瞬間は、自分の恋人が他の誰かに盗られるかもしれないと恐れるときだ。そのとき当事者は、その第三者に嫉妬して、恋人をより惹きつけたいという衝動に駆られる。だが、それは愛ではない。嫉妬である。これがロレンスの一貫した主張である。

確かに欲望とは、結局他者の欲しているものを自分も欲しているに過ぎない。その意味でヘーゲルは欲望とは他者の欲望であると述べている。結局このループを断ち切らない限り、人は他者の欲しているものを欲し、その結果争戦争は絶えないであろう。それは人間のもつ権力への欲望であり、支配への欲望である。

しかし、ここで見逃してはならないのは、こうした観点が誰しもが権力の地位につけるという建前を与えられた議会制民主主義の時代においてはっきりと見出されたということだ。したがって、ルソーがはっきりと認識していたように、共和制や民主主義は可能かという問いは、人はこのルサンチマンから逃れられるかという問いと同じなのである。

20世紀に悲劇を経験した我々はファシズムが、結局は新しい人と人、人と自然の関係性を回復するどころか、ユダヤ人をはじめとする他者の存在を抹殺することにしかならなかったことを知っている。この答えは、国家にも、市場にも、共同体にもない。では我々は一方で市場経済に基づいて、個人が自由に才能を伸ばし、他方で他者からの嫉妬(ルサンチマン)に曝されることなく、相互に助け合える社会を構想すべきではないだろうか。私はそれこそがアソシエーショニズムであると考えている。

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