
西洋文明諸国にとって、権力を司る議会政治は、権威を司るキリスト教会によって補完されている。たとえばイギリスにおいてはイギリス国教会、ロシアにおいてはロシア正教がそれにあたる。イギリスの政治思想家エドマンド・バークは『フランス革命の省察』の中で、フランス革命で彼らはすべてを破壊しつくしてしまったが、同様の政治的革命にもかかわらずイギリスは王制を継続する道を選んだという点で叡智を持っていたと論じた。なぜなら、国家には政治的権力と並んで、国民の精神的支柱になるような宗教的権威が必要だからである。イギリスにおいてはそれがイギリス国教会であり、その頂点にいるのがイギリス国王なのである。だからこそ島国という位置にあって、多くの外来文化に曝されながらも、イギリスが独自の伝統と文化を守ることによって国としての一体性を確保できたとバークは考えたのである。
同様に明治日本で、伊藤博文を中心にして近代憲法を起草する際、この議会政治を支える宗教的権威を何に求めるかが大きな議論になった。日本には西欧のようにキリスト教の伝統はなく、かといって仏教はそこまでの力を持っていない。そこで彼らが考えたのは、天皇を国家神道で基礎付け、天皇制として復興(renewal)する方法であった。人民が新しい価値観に戸惑ったとしても、精神の深いところで古代から続く天皇制という神話があれば、秩序が守られると考えたのである。こうした支配や統治形態は、第二次世界大戦の敗戦以後も続けられた。日本を占領した連合国軍総司令部のダグラス・マッカーサーを中心として、占領を秩序あるものにし、財閥解体、農地改革などの大胆な変革を遂行するためには天皇制の権威を利用するのが一番だと判断したためである。もちろん、それ以前からアメリカはルース・ベネディクト(『菊と刀』)など多くの文化人類学者などを使って、日本を研究するために時間と資金を投じてきた。そして戦後日本国憲法が発布され、天皇は一応「国民の象徴」という位置づけで維持されていくこととなった。
確かに三島由紀夫など右翼的思想を抱いている人々にとってそれは失望でしかなかったかもしれない。しかし、本当の意味で三島を苛立たせたのは平和憲法の下での象徴天皇だけでなく、もはやそうした文化的な、宗教的な精神的支柱の必要性を顧みようともしない高度経済成長の日本人の姿だったのではないだろうか。60年代から加速する高度消費社会なのかで、途中安保闘争や全共闘運動を挟むものの、結局は64年の東京オリンピックに代表される物質的豊かさのなかで充足していく。この時期天皇制や戦前の問題をジャーナリズムがタブー視していたのは、彼らの怠慢や恐れからだけではない。むしろ、国民は新しい共同体や宗教を手に入れてしまったからだ。それは、すなわち「工場」「会社」という職場共同体であり宗教である。そこで働くということは戦後日本人にとって生きるために必要なものと言う以上に一種の人生の拠り所にまでなってしまったのである。私は外国人との付き合いの中で、日本人ほど働くことを美徳と考え、プライベートすらそれに捧げることを良しとする国民を知らない。
とりわけ、会社における終身雇用という神話は戦後の人々の意識を強く規定してきた。働けば必ず生活はよくなる、仲間とは職場の同僚のことだ、将来は夢のマイホームが欲しいなど、どんなにナイーブなものであったとしてもそれは日々の希望を与えるに充分であった。このような国民の意識は決して自然に作られたのではない。国家や経済界の意向を反映して、学校という教育現場や、会社という職場を通じて人間という本来多様な側面をもった存在を一労働力商品に還元していくかのような政策が徐々に浸透していった。ただし、まだ60年代や70年代までは大学においてもリベラル・アーツ(人文教養)やアカデミズムの伝統が強く、すぐ実益に結びつく学問や即戦力になる人材を育成するという安易な風潮に対する反発があった。(私の知る限りイギリスでは歴史を重んじる学風を守り続け、いまでも高い水準の学問的業績を生み出し続けている。)
やがて、80年代になると冷戦構造にも綻びが生じる。つまり、ソ連・中国の社会主義諸国の経済的貧困が報道され、西側諸国に資本主義経済の優位が自覚され始める。何よりも、30年代の世界恐慌の反省に立ち、社会主義への対抗のため打ち出した福祉国家政策も財政的に逼迫し始める。その結果、英米のサッチャー、レーガンは膨らんだ国内富裕層・投資家を支持層として、減税や公共サービスのカットなど、弱者切り捨て政策を断行する。彼らは減税してくれれば、低い公共サービスにお金をかける代わりに、もっと良質な民間の学校や病院に行けるからだ(現在のアメリカの保険システム・医療システムを見ればこれすら幻想なのだということが明らかである。アメリカでは民間が低いサービスで高額な医療費を得るために、国民皆保険の導入を拒んでいるという経緯がある)。この流れはバブル崩壊以後日本にも放流のごとく押し寄せ、郵政民営化を掲げる小泉・竹中改革においてひとつのピークを迎える。
よく日本人は無宗教であるという意見が聞かれる。外国には宗教を背景にした民族対立があるがそれを対岸の火事のように眺めている。だが、冷静に考えてみれば、人間にとってこれほど大事なものが日本人にだけはいらないと言えるはずがない。むしろ、日本人にとっては何か他のものが代わりをしていると考えるべきである。それはこれまでの議論を踏まえれば、良くも悪くも天皇制であり、それを戦後の一時期見えにくくさせていたものが会社における終身雇用というシステムだったのである。それは実際には守られていなかろうとそう信じられているという点で社会の一体性を保つイデオロギー装置としての機能を果たすことができる。このようなコンセンサスがなければ戦後の高度経済成長もあり得なかったであろう。
しかし、グローバル経済の進展によって、我々はふたたび深刻な危機に直面している。それは、グローバル・スタンダードの名の下に、我々の経済ばかりでなく他の生活領域が合理主義的で画一化された線に沿って再編されていくことである。もっと言えば、我々の行動すべてが手段と目的の連鎖の中に絡めとられ、有用性の観点からしか眺められないということである。哲学的にいえば、主観-客観の等質的な閉じた認識世界の虜となり、そこでは単に労働者としてのみ存在し、仕事以外の楽しみを追求することは禁じられている。仮に休みがあったとしてもそれは、明日の仕事の英気を養うためでしかない。こうして我々の生活空間が縮小していく中で、最後の砦とも言うべき「共同体」や「人生の目的」を与えてくれた会社共同体はもはや存在しない。これまで我々の社会を支えてきた倫理的基盤は崩壊したのである。その時一体孤立した個人はどこに向かうのだろうか。
未来を占う不吉な前兆は、近年発表され話題を呼んだ田母神論文である。彼は「日本をいい国だ」と言ったら、解任されたと方々で発言している。実はこれに対して「そうだ」と賛成することも、「なんて空論だ」と非難することも同じく罠である。この言葉は議論を呼び起こすだけで決して答えは出てこないゴルディオスの結び目のようなものである。これを解決する方法はただ一つ。かつてアレクサンダー大王がやったように解くのではなく、刀で断ち切ることである。つまり、こうした保守反動的な言説が出てくる構造的な原因を突き止めていくことである。実は田母神氏の論文や発言に意外なほど賛同者が多い大きな要因は、彼が格差社会の犠牲者である若者層の支持を背景にしているからである(それゆえ戦争体験世代の高齢者からは反発が多いのもまた事実である)。
もしかするとグローバルスタンダードの犠牲となり、勝ち馬に乗れなかった人々はもはや愛国心にしか心の拠り所がなくなってしまたのかもしれない。家族もなく、恋人もなく、友人もなく、会社もないとなれば民族的な自負心にすがらざるを得ないのも止むを得まい。成果主義や効率主義といった市場の公正にして透明な基準は、もはや彼らにとって苦痛以外の何ものでもない。自分の存在の価値はそんなものでは測れないという思いがあるのだろう。もちろんそれは正しい。まっとうな感覚ですらあるだろう。ただし、それが理性的判断を拒否し、シニシズムに陥るだけならば我々は文明からまたもや野蛮へと落ち込むことになる。日本の在り方を全部グローバルスタンダードに合わせようとする経済学者の愚考は論外としても、日本は美しいとか、日本的価値を主張することは戦前の日本浪漫派のそれと何も変わってはいないのだ。
では、いま我々が直面している真の課題は何であろうか。若者の働きやすさを改善すること、女性の育児支援に予算をつけることであろうか、それとも老人の介護を整備することであろうか。私はこれらのいずれにも賛成する一方で、不満を感ずる。なぜならば、それらは所詮現代社会の延長線上における量的な改革であるにとどまり、質的な改革にまでは至っていないからだ。文明から野蛮へという現代の啓蒙の弁証法を回避する唯一の手立ては、新しい倫理の上に社会を再建することである。いいかえれば、天皇制や会社の終身雇用という神話に代わって、これからの日本人(日本語を話す外国人も含む)が、目指すべき理想=統制的理念を共有しなくてはならない。これは決して抽象論ではない。
カントは普遍的な道徳命題を「他者を手段として扱うと同時に目的としても扱え」と要約する。この言葉の意味することは、他者を利益の道具と見なさざるを得ない経済活動を停止せよという意味ではない。そうではなくて、社会の中に商品経済とはかかわらない自律的な領域(それ自体が目的である)を持てということなのである。つまり、有用性という観点からは何の役にも立たないが、労働者としての存在から抜け出させてくれるものである。それは一体何であろうか。私にとってはそれは詩作であり、そしてキリスト教徒として安息日に教会の礼拝に出かけることである。そこには前者には内面生活があり、後者には地域の共同体(コミュニティー)がある。何よりもこの実用性の観点からは無価値の烙印を押される芸術と宗教だけが今日の世界において経済的基準を無効にする力を持っているからである。
イギリス批評家・思想家ジョン・ラスキンは、新約聖書の中のマタイ福音書の一節から着想した『この最後の者にも』という作品を残している。この一節はイエスが神の教えを「ブドウ園の労働者」のたとえ話を通して示されるシーンである。あるブドウ園の主人が、ある朝市場に行くと何もしないで立っている人がいた。彼にブドウ園に行って働けば一ペニー払おうと約束する。そして、また後で市場に行くと人が立っている。彼にも同じように約束してブドウ園で働かせる。さらに、夕方頃に再び市場に行くとやはり人が立っている。主人はそれを見て憐れに思い同じ約束をして働かせる。やがて夜になって仕事も終わり、賃金をもらう時、先に来た者たちが最後の者も同じ一ペニーもらえるのはおかしいと主張する。すると主人は彼らに向かって次のように述べる。
「友よ、わたくしはあなたに対して不正をしてはいない。あなたはわたくしと一ペニーで約束したではないか。自分の賃金をもらっていきなさい。わたくしは、この最後の者にも、あなたと同様に払ってやりたいのだ」(マタイ福音書第、二〇章一三~一四節)。こう語り終えた後イエスは次のようにこの話を締めくくる―《このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる》。この最後の言葉によって我々は単なるヒューマニズムから大いなる逆説(パラドックス)へと突き落される。ここにおいて通常の合理的基準が全く逆転されてしまっている。道徳では良い行いをした人は必ず報われると説くが、神の愛においては善人であるゆえに救われることはなく、同様に悪人であるがゆえに救われないこともない。この世の中での優劣関係は一切無効になる。だが、それは一体なぜなのか、我々はこう問わざるを得ない。そしてこの問いの前に立ち尽くす人のみが善悪の彼岸にある倫理と名づけられた領域に足を踏み入れることができるのである。