Akizukiseijin’s Weblog

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‘宗教’ カテゴリーのアーカイブ

パウロ―ガラテヤ人への手紙

投稿者: akizukiseijin : 10月 21, 2009

彼らが福音の真理についてまっすぐに歩んでいないのを見て、私はみなの面前でケパにこう言いました。「あなたは、自分がユダヤ人でありながら、ユダヤ人のようには生活せず、異邦人のように生活していたのに、どうして異邦人に対して、ユダヤ人の生活を強いるのですか。」―ガラテヤ 第2章第14節

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。―ガラテヤ 第2章20節

しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架に付けられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。どうか、この基準に従って進む人々、すなわち神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。―ガラテヤ 第6章第14-16節

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一粒の麦

投稿者: akizukiseijin : 10月 11, 2009

一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。 だが、死ねば、多くの実を結ぶ。―ヨハネによる福音書 第12章24節

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光りあるうちに光の中を歩め

投稿者: akizukiseijin : 10月 4, 2009

権勢によらず、能力によらず、あなたの聖霊によって人生の旅路を歩んでいけますように。

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ゲッセマネの園の祈り

投稿者: akizukiseijin : 8月 23, 2009

私たち肉体を持つ者は、人間の限界の中に生きている。いかに心は思っていても、肉体が疲労困憊すれば、心について行くことはできない。「げに心は熱すれども、肉体は弱し」と言われたイエスの言葉が、私の胸にあたたかく呼びかけるのを、今日まで私は幾度か体験してきた。なんと、深い人間洞察の言葉であろうか。―三浦綾子『イエス・キリストの生涯』

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ポストモダン・ライフスタイル論

投稿者: akizukiseijin : 6月 29, 2009

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“すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。”―マタイによる福音書第一一章第二八節

現代人の暗黙のスローガンは、まさに「時は金なり」である。この言葉の意味するところは結構深い。つまり、今や時間に関する考え方と貨幣に関する考え方が人々を縛り付けているということだろう。その結果、誰もが忙しいし、また忙しいふりもする。なぜなら、現代の都市生活では完全に何もすることがないことがあたかも罪悪のように感じられる瞬間があるからだ。また金にならないことに時間を使うのは無駄だと多くの大人は刷り込まれ、また子供にもそうした考えを知らず知らずに伝染させてしまってはいないだろうか。

つい2、3年前私は海外から洋書を注文した際、こんな経験をして驚いた。それは大晦日を家族とともに過ごし、元旦を迎えて朝食をとっていると、ペリカン便の配達夫がやってきて本をお届けにあがりましたという。私はびっくりして代金を支払い、本を受け取った。彼はよくこのエリアを中心に配達してくれている優しい感じの中年のおじさんで、「ありがとうございました」と笑顔で言うとまた配達の車に戻っていった。私は欲しかった本が届いた嬉しさと、彼が家族と元旦を一緒に祝う時間を奪ったことに後ろめたさを同時に感じた。便利の裏側で泣いている人がいるかもしれないと思うようになったのはこのときからだ。

また最近仕事で浦和に出かけていた時、駅前の道路で若い女性がチラシを配っていた。私は歩きながらも、彼女の説明が耳に入ってきた。それは駅前にオープンした足のマッサージのリラクゼーションルームのビラ配りだった。確かに今やこんな情景は珍しくもないが、そのとき私は、「癒し」というやや抽象的なサービスが現代人の間で確実な需要を見込める事業として定着していることを思い知った。癒し系サロンなんて一昔前には考えられもしなかった職業だ。でも、なぜ昔の人はそれがなくても少しも困らなかったのだろうか。私たちはこれを進歩と呼べるのだろうかと、こんなことを取り留めもなく考えながら歩き続けた。

確かに、グローバル競争だ、自己責任だと叫ばれて久しいこの時代において時間を無駄にする人間はそれだけで敗者であるかのように扱われる。書店に行けば無駄なく効率的に勉強する方法や、100億稼ぐ仕事術などが平積みにされている。その一方で、悩む力などという滑稽なタイトルの本が飛ぶように売れているという。

しかし、こうしたアンビバレンスな現象を眺めていると、一体人々はどっちに進みたいのかと世の中につっ込みを入れたくなってくる。だってそうだろう。現代社会の中で、お金を儲けようとすれば時間を節約しなければならず、逆に豊かな人生の時間を過ごしたいとすれば、仕事術なんていう本は脇にどけなければならない。近代資本制経済の段階で両方を同時に手にすることは不可能なのだ。まるで自分で自分の生活を苦しくしているようなものだ。カネもなくゆとりもない生活へ人々はズブズブとはまり込んでいるのではないのか。

みんな自分自身のことに掛かり切りになって、周りを見渡す余裕もないように見える。彼らはみな努力することを知っている。でも彼らが知らないのは、適度にうまく力を抜くコツではないのだろうか。私にはそう思えてならない。そして、何より現代の労働条件の変化によって直接的にもたらされたもの、それは「休息」の意味の変容である。人々はこの変化に薄々気づいているが、どうしようもなく満たされない自分がそこにいる。

実は、彼らが「休息」についてまだはっきりと見抜けていないことがある。すなわち、それが身体的な疲れを癒すことであるだけでなく、むしろ心の重荷を取り去るためのものだということである。では、そうした心の癒しは何処で手に入るのだろうか。私はそれがリラクゼーションルームの個室でないことだけは断言できる。なぜなら、孤独や不安を癒す力は、同じパンを食べるという意味のcom -panyの語源にもあるように、仲間と一緒に食事をしたり、語らったりして共有するひと時のなかにあるからだ。言い換えれば、他者と共有する時間のなかに癒しもまた存在する。哲学者のイバン・イリイチもまた現代の都市生活に欠けたものとして「共同のくつろぎ」(conviviality)の重要性を強調している。

このように考えると我々はある逆説に逢着する。それは自分の余った時間を他人のために使う人間の方が、それを自分のためだけに使う人間よりもかえってくつろぎや充実感を受け取るというパラドックスである。一度それを失った人間の方が後でそれをより多く取り戻すことは聖書が何度も強調している真理でもある。経験則からも分かるように、自分のためだけに生きている人間とは案外脆く、馬力も出ないものである。本当に生きている人とは家族のため恋人のため友人のため神のために働き、そこからかえって充足を得ている。

では、我々はいかにしたらこういう生き方ができるのだろうか。今までと違ったライフスタイルを選びとることは可能なのだろうか。もちろん私は可能だと考える。それは自分中心の生き方から、他者中心の生き方へ転換することだ。それは自分を利するためだけに生きるのではなく、すべての他者を自分よりも優れた者として尊重し、彼らのためになることをしようと考えることである。例えば、困った人や弱い人を見つけたら蹴飛ばすのではなく、背中を押してあげられるようになることである。そのような態度の変化は必ず周囲の人たちを明るくするだろう。そして、人間関係を円滑にしてくれ、いつの間にかあなたの存在が共同のくつろぎで満たされたものになると約束しよう。

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神の愛について―なぜ人は謙虚であるべきなのか

投稿者: akizukiseijin : 6月 19, 2009

washing道徳において、人は謙虚であるべきだと説かれている。謙虚さとは、他人に対して自らへりくだること、すなわち他者を尊重することを意味する。でも、考えてみればこの教えはこのままでは極めて根拠が薄い。そのため、社会では個人の裁量に任されていて、謙虚にする人はするし、そうしない人はしない。だから、現代の人間関係は一向に円滑になっていかない。ここに私たちの社会の混迷の一端があるといっても過言ではない。

では、なぜ現代は心の謙虚さを失ったのだろうか。この問題を私自身の経験を通して考えてみたい。私自身ものを書く必要がら、毎日多くの書物を読み、知識を吸収し、思考する。そして、世の中を批判的に見て、一般的な通念を疑うことを常とする。そのため、だんだん不平家になり、世の中を儚んだりする。酷い場合は、自分だけが真理を手にし、一番偉くなったように思えてくる時すらある。

しかし、これは言うまでもなく大きな間違いである。まさに傲慢という病にかかっている。あなたはジョージ・ルーカスの『スターウォーズ』という映画をご覧になったことはあるだろうか。その第二作目「帝国の逆襲」で、私のお気に入りの登場人物ジェダイマスター、ヨーダが次のような会話をする重要なシーンがある。

フォースの師であるオビワンを失った主人公ルークは、導かれてこのヨーダのもとに教えを乞うためにやってくる。惑星に降り立ったルークは、彼を探し当てるがはじめはそのみすぼらしさに半信半疑になる。そして、「あなたがあの偉大な戦士マスター・ヨーダですか」と聞くと、ヨーダは次のように答える―「「偉大な戦士」か、でも人は戦いで偉くはならない」。おそらく、ここでヨーダは、強いフォースを持ち、戦士になることは重要だが、まず心を学ばなければ、それを偉大さとはき違え人は傲慢になる。その結果、いつか道を踏み外し、ダークサイド(暗黒の支配)に身を委ねてしまうと言いたかったのだろう。

同様にどんな分野であれ、学びつづけていく人はまず心を学ばなければならない。学んでいけば学んでいくほど傲慢になり、人格を歪めていくくらいなら、はじめから学ばぬ方が良い。なぜなら、知識があって高慢な人と、知識がなくても満たされ心穏やかな人と比べれば、後者の方が人々を元気づけたり、良い感化を与えることによって、世の中を明るくしてくれるからである。私は今の日本が小利口な知識人の悪の支配に染まってしまっているように思えてならない。

それならば、一体我々はどうするべきなのだろうか。私が思うに、他人への批判の背後にあるのは悪意や嫉妬ではないだろうか。裏を返せば、自分が偉くなりたい、中心に居座りたいという虚栄心ではないだろうか。それとは逆に、本当に重要なのはむしろ「誉める」ことではないだろうか。なぜなら、誉めることの背後にあるのは、人に対する温か味であり、愛情だからである。愛なくして、子供や他人の欠点ではなく、長所を認め、伸ばしてあげようという気になるだろうか。

また誉めるという行為が大切なのは、自分が謙虚な姿勢でなければ決してすることができないからである。自分が謙(へりくだ)って、すべての他人を自分より優れたものと見なし得てはじめて人は誉めることができる。誉めることはすなわち愛であり、そして愛とはすなわち謙譲なのである。

このことを教えてくれるのは新約聖書に描かれた神の愛である。神は人間を愛するがゆえに、自分の独り子を地上に遣わした。そのナザレのイエスは、高慢になるどころか、弟子たちの足を自ら洗い、最後には人々の罪を背負って十字架に架けられた。この神の愛、アガペー(無償の愛)を想う時、神ですら人間に対して謙られたのだから、人間が他人に対して謙れない理由が何処にあるだろうか。

最後の晩餐でイエスは弟子たちにこう言い残している。私があなた方を許したように、あなた方も互いに許し合いなさし。そして、私があなた方をこれほどまでに愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい、と。この最後の教えこそは、閉塞感に覆われた世の中で、その雲間を突き抜けて地上に差し込む一条の光ではないだろうか。愛という泉から湧き出るように、謙虚に、許し合い、誉め合う社会へと一人でも多くの人が立ち戻ることを心から祈りたい。

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新約聖書のパラドックス―なぜ貧しき人たちは幸いなのか

投稿者: akizukiseijin : 6月 13, 2009

img_1092910_56143460_0現代人は老いも若きも、男も女も、豊かで安定した生活を追い求める。無論それ自体は間違っていないし、私とて同様である。ただし、そうした現代の暗黙の価値基準に執着するあまりに、そこから毀れ堕ちた人を蔑む社会になってしまってはいないだろうか。またそのコインの表と裏である同情からもたらされる救済措置に果たしてどんな効果があるのだろうか。私たちが市民として成熟していくためには、もう少し違った考え方が必要とされているように思われるのだ。

私が聖書を読んで間もない頃、最初に興味深いと感じたのは次のような逆説(paradox)だった。すなわち、生活に困窮し打ちひしがれた人々を憐れんではいけない。なぜなら彼らは私たちより優れた宝を一つ持っているから。それは言うなれば、最底辺に立つ者が社会を見上げる時の視線であり、感性の鋭さである。例えば、人が人を踏む時、踏んだ方は痛みを感じない。それを感じるのは踏まれて苦しんでいる者の方である。そこに社会の弱者への偏見や無理解の源泉があると同時に、なぜイエス・キリストはこの貧しき人々にだけ真理を語られたのかの秘密がある。ここで新約聖書「マタイによる福音書」から次の有名な一節を引用しよう。

心の貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。
柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。
義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。
あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。
心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。
平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。
義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
…。(※)

上記の引用と同様に、聖書の中にある「富んだ者が神の国にはいるのは、ラクダが針の穴を通るよりも難しい」というイエスの言葉は、単に社会的弱者の肩を持っている社会改革者という立場で解釈してはならない。そこには、弱者の繊細な感性のみが知り得る人間と社会の実相があり、それゆえ神の言葉に対して彼らの耳がつねに開かれていることを表現しているのだと見なすべきである。

私自身自らの体験からこのことの恐ろしさをしばしば痛感させられている。それは自分が方向性を見失い、自問自答を繰り返している時には逆に感性も研ぎ澄まされ、あらゆる景色や人の言葉が身にしみて感じられるのに、いったん安定した生活や幸せを手にしてしまうとすっかりそれを忘れ去ってしまい、言葉も心に響かなくなるからだ。

そのことが最も端的に表れるのは私にとって詩を書く瞬間である。以前は、あんなにも深く心に突き刺さってきた風景や言葉たちが、もはや心の網に引っ掛かってこないのである。このときほど私は何かを得たとき、同時に何かを失うということに愕然とする瞬間はない。

かつて腐敗しかかっていたユダヤ人社会の中で、小さく貧しくされた者とともに語らいながら、イエスはかくして宗教改革家であると同時に社会改革家になったのである。この両義性にこそ注目すべきである。そこにはそうでなくてはならない必然性があった。彼は自らも傷ついた者が持つ眼差しと感性を知った上で、真理を語り、社会を改革したのである。だからこそ、彼の言葉は貧困格差や抑圧的な権力社会への痛烈な批判力を永遠に失わない。

まさしく支配者が自らの富と権力を誇った瞬間に、真理は、知らず知らずのうちに被支配者の側に移動してしまうのである。それは別に同情とかヒューマニズムからではなく、哲学における弁証法的な問題としてそうなのである。これは政治や経済や社会に当てはまるばかりでなく、我々個々人のケースにも当てはまるだろう。

このことを踏まえたとき、我々はもっと他者に対して謙虚であらねばならないのではないかと、そう思わずにはいられない。なぜなら私たちが優位だと思っているまさにその瞬間に、その位置が逆転して、本当に大切な幸せの青い鳥を見失ってしまうかもしれないからである。

 

【注記】

※日本聖書協会『新約聖書』(1965、10頁)―マタイによる福音書、第5節、第3節~10節。

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休息と労働について

投稿者: akizukiseijin : 6月 7, 2009

アダムとエバ“神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。”―「創世記」 第二章第三節

旧約聖書の創世記では神は創造の七日目に休息をとられた。また、出エジプト記でもモーゼの十戒の中に同様の教えが刻まれている。神は人間への愛によって、労働から解き放たれているべき安息日をお与えになり、またその日の糧をもお与え下さったのである。だから人間は日曜には肩の荷を下ろし、主とその教えに向き合い、感謝を捧げるべきである。その結果、私たちは月曜の朝の仕事をまた順調に始めることができるのである。

それは単に神の教えと言うだけでなく、医学的にも人間の生命のリズムにあっている。たとえば、かつてアメリカのゴールドラッシュのとき労働者の間で、七日目に休む人とそうでない人がいた。休まない労働者は短期的には成果を上げられたが、やがて体調を崩してしまった。それに対し、七日目に休みを取った労働者は持続的に働き、そして生活していくことができたそうである。

しかし、現代の労働観はこの原因と結果を履き違えてしまっているのではないだろうか。つまり、神は本来労働から解放するために休みを与え、教会で人々を癒してくだされた。その結果、我々は元気に働いていける。それに対して、現代人はまず何よりも明日働くために休む。だから、その貴重な休日も精神的な不安やストレスですり減ってしまうのである。

私は、休息とは日常経験の世界とは切り離された特殊な領域であると考える。すべての活動の中断とは、それ自体出来事であり、まさしく神聖な時間といえるからである。このような生活リズムを作っていかないことには我々は心身ともに疲弊してしまうだろう。このように我々は祖先の時代から、日々のルーティーン活動の外に、あえて祝祭のような外部を作り出すことによって、システムを安定させる智慧を今日まで受け継いできた。このことを現代人は再認識するべきではないだろうか。

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幸福論―なぜ道徳ではなく倫理が必要なのか

投稿者: akizukiseijin : 6月 4, 2009

aristotle

西洋文明諸国にとって、権力を司る議会政治は、権威を司るキリスト教会によって補完されている。たとえばイギリスにおいてはイギリス国教会、ロシアにおいてはロシア正教がそれにあたる。イギリスの政治思想家エドマンド・バークは『フランス革命の省察』の中で、フランス革命で彼らはすべてを破壊しつくしてしまったが、同様の政治的革命にもかかわらずイギリスは王制を継続する道を選んだという点で叡智を持っていたと論じた。なぜなら、国家には政治的権力と並んで、国民の精神的支柱になるような宗教的権威が必要だからである。イギリスにおいてはそれがイギリス国教会であり、その頂点にいるのがイギリス国王なのである。だからこそ島国という位置にあって、多くの外来文化に曝されながらも、イギリスが独自の伝統と文化を守ることによって国としての一体性を確保できたとバークは考えたのである。

同様に明治日本で、伊藤博文を中心にして近代憲法を起草する際、この議会政治を支える宗教的権威を何に求めるかが大きな議論になった。日本には西欧のようにキリスト教の伝統はなく、かといって仏教はそこまでの力を持っていない。そこで彼らが考えたのは、天皇を国家神道で基礎付け、天皇制として復興(renewal)する方法であった。人民が新しい価値観に戸惑ったとしても、精神の深いところで古代から続く天皇制という神話があれば、秩序が守られると考えたのである。こうした支配や統治形態は、第二次世界大戦の敗戦以後も続けられた。日本を占領した連合国軍総司令部のダグラス・マッカーサーを中心として、占領を秩序あるものにし、財閥解体、農地改革などの大胆な変革を遂行するためには天皇制の権威を利用するのが一番だと判断したためである。もちろん、それ以前からアメリカはルース・ベネディクト(『菊と刀』)など多くの文化人類学者などを使って、日本を研究するために時間と資金を投じてきた。そして戦後日本国憲法が発布され、天皇は一応「国民の象徴」という位置づけで維持されていくこととなった。

確かに三島由紀夫など右翼的思想を抱いている人々にとってそれは失望でしかなかったかもしれない。しかし、本当の意味で三島を苛立たせたのは平和憲法の下での象徴天皇だけでなく、もはやそうした文化的な、宗教的な精神的支柱の必要性を顧みようともしない高度経済成長の日本人の姿だったのではないだろうか。60年代から加速する高度消費社会なのかで、途中安保闘争や全共闘運動を挟むものの、結局は64年の東京オリンピックに代表される物質的豊かさのなかで充足していく。この時期天皇制や戦前の問題をジャーナリズムがタブー視していたのは、彼らの怠慢や恐れからだけではない。むしろ、国民は新しい共同体や宗教を手に入れてしまったからだ。それは、すなわち「工場」「会社」という職場共同体であり宗教である。そこで働くということは戦後日本人にとって生きるために必要なものと言う以上に一種の人生の拠り所にまでなってしまったのである。私は外国人との付き合いの中で、日本人ほど働くことを美徳と考え、プライベートすらそれに捧げることを良しとする国民を知らない。

とりわけ、会社における終身雇用という神話は戦後の人々の意識を強く規定してきた。働けば必ず生活はよくなる、仲間とは職場の同僚のことだ、将来は夢のマイホームが欲しいなど、どんなにナイーブなものであったとしてもそれは日々の希望を与えるに充分であった。このような国民の意識は決して自然に作られたのではない。国家や経済界の意向を反映して、学校という教育現場や、会社という職場を通じて人間という本来多様な側面をもった存在を一労働力商品に還元していくかのような政策が徐々に浸透していった。ただし、まだ60年代や70年代までは大学においてもリベラル・アーツ(人文教養)やアカデミズムの伝統が強く、すぐ実益に結びつく学問や即戦力になる人材を育成するという安易な風潮に対する反発があった。(私の知る限りイギリスでは歴史を重んじる学風を守り続け、いまでも高い水準の学問的業績を生み出し続けている。)

やがて、80年代になると冷戦構造にも綻びが生じる。つまり、ソ連・中国の社会主義諸国の経済的貧困が報道され、西側諸国に資本主義経済の優位が自覚され始める。何よりも、30年代の世界恐慌の反省に立ち、社会主義への対抗のため打ち出した福祉国家政策も財政的に逼迫し始める。その結果、英米のサッチャー、レーガンは膨らんだ国内富裕層・投資家を支持層として、減税や公共サービスのカットなど、弱者切り捨て政策を断行する。彼らは減税してくれれば、低い公共サービスにお金をかける代わりに、もっと良質な民間の学校や病院に行けるからだ(現在のアメリカの保険システム・医療システムを見ればこれすら幻想なのだということが明らかである。アメリカでは民間が低いサービスで高額な医療費を得るために、国民皆保険の導入を拒んでいるという経緯がある)。この流れはバブル崩壊以後日本にも放流のごとく押し寄せ、郵政民営化を掲げる小泉・竹中改革においてひとつのピークを迎える。

よく日本人は無宗教であるという意見が聞かれる。外国には宗教を背景にした民族対立があるがそれを対岸の火事のように眺めている。だが、冷静に考えてみれば、人間にとってこれほど大事なものが日本人にだけはいらないと言えるはずがない。むしろ、日本人にとっては何か他のものが代わりをしていると考えるべきである。それはこれまでの議論を踏まえれば、良くも悪くも天皇制であり、それを戦後の一時期見えにくくさせていたものが会社における終身雇用というシステムだったのである。それは実際には守られていなかろうとそう信じられているという点で社会の一体性を保つイデオロギー装置としての機能を果たすことができる。このようなコンセンサスがなければ戦後の高度経済成長もあり得なかったであろう。

しかし、グローバル経済の進展によって、我々はふたたび深刻な危機に直面している。それは、グローバル・スタンダードの名の下に、我々の経済ばかりでなく他の生活領域が合理主義的で画一化された線に沿って再編されていくことである。もっと言えば、我々の行動すべてが手段と目的の連鎖の中に絡めとられ、有用性の観点からしか眺められないということである。哲学的にいえば、主観-客観の等質的な閉じた認識世界の虜となり、そこでは単に労働者としてのみ存在し、仕事以外の楽しみを追求することは禁じられている。仮に休みがあったとしてもそれは、明日の仕事の英気を養うためでしかない。こうして我々の生活空間が縮小していく中で、最後の砦とも言うべき「共同体」や「人生の目的」を与えてくれた会社共同体はもはや存在しない。これまで我々の社会を支えてきた倫理的基盤は崩壊したのである。その時一体孤立した個人はどこに向かうのだろうか。 

未来を占う不吉な前兆は、近年発表され話題を呼んだ田母神論文である。彼は「日本をいい国だ」と言ったら、解任されたと方々で発言している。実はこれに対して「そうだ」と賛成することも、「なんて空論だ」と非難することも同じく罠である。この言葉は議論を呼び起こすだけで決して答えは出てこないゴルディオスの結び目のようなものである。これを解決する方法はただ一つ。かつてアレクサンダー大王がやったように解くのではなく、刀で断ち切ることである。つまり、こうした保守反動的な言説が出てくる構造的な原因を突き止めていくことである。実は田母神氏の論文や発言に意外なほど賛同者が多い大きな要因は、彼が格差社会の犠牲者である若者層の支持を背景にしているからである(それゆえ戦争体験世代の高齢者からは反発が多いのもまた事実である)。

もしかするとグローバルスタンダードの犠牲となり、勝ち馬に乗れなかった人々はもはや愛国心にしか心の拠り所がなくなってしまたのかもしれない。家族もなく、恋人もなく、友人もなく、会社もないとなれば民族的な自負心にすがらざるを得ないのも止むを得まい。成果主義や効率主義といった市場の公正にして透明な基準は、もはや彼らにとって苦痛以外の何ものでもない。自分の存在の価値はそんなものでは測れないという思いがあるのだろう。もちろんそれは正しい。まっとうな感覚ですらあるだろう。ただし、それが理性的判断を拒否し、シニシズムに陥るだけならば我々は文明からまたもや野蛮へと落ち込むことになる。日本の在り方を全部グローバルスタンダードに合わせようとする経済学者の愚考は論外としても、日本は美しいとか、日本的価値を主張することは戦前の日本浪漫派のそれと何も変わってはいないのだ。

では、いま我々が直面している真の課題は何であろうか。若者の働きやすさを改善すること、女性の育児支援に予算をつけることであろうか、それとも老人の介護を整備することであろうか。私はこれらのいずれにも賛成する一方で、不満を感ずる。なぜならば、それらは所詮現代社会の延長線上における量的な改革であるにとどまり、質的な改革にまでは至っていないからだ。文明から野蛮へという現代の啓蒙の弁証法を回避する唯一の手立ては、新しい倫理の上に社会を再建することである。いいかえれば、天皇制や会社の終身雇用という神話に代わって、これからの日本人(日本語を話す外国人も含む)が、目指すべき理想=統制的理念を共有しなくてはならない。これは決して抽象論ではない。

カントは普遍的な道徳命題を「他者を手段として扱うと同時に目的としても扱え」と要約する。この言葉の意味することは、他者を利益の道具と見なさざるを得ない経済活動を停止せよという意味ではない。そうではなくて、社会の中に商品経済とはかかわらない自律的な領域(それ自体が目的である)を持てということなのである。つまり、有用性という観点からは何の役にも立たないが、労働者としての存在から抜け出させてくれるものである。それは一体何であろうか。私にとってはそれは詩作であり、そしてキリスト教徒として安息日に教会の礼拝に出かけることである。そこには前者には内面生活があり、後者には地域の共同体(コミュニティー)がある。何よりもこの実用性の観点からは無価値の烙印を押される芸術と宗教だけが今日の世界において経済的基準を無効にする力を持っているからである。

イギリス批評家・思想家ジョン・ラスキンは、新約聖書の中のマタイ福音書の一節から着想した『この最後の者にも』という作品を残している。この一節はイエスが神の教えを「ブドウ園の労働者」のたとえ話を通して示されるシーンである。あるブドウ園の主人が、ある朝市場に行くと何もしないで立っている人がいた。彼にブドウ園に行って働けば一ペニー払おうと約束する。そして、また後で市場に行くと人が立っている。彼にも同じように約束してブドウ園で働かせる。さらに、夕方頃に再び市場に行くとやはり人が立っている。主人はそれを見て憐れに思い同じ約束をして働かせる。やがて夜になって仕事も終わり、賃金をもらう時、先に来た者たちが最後の者も同じ一ペニーもらえるのはおかしいと主張する。すると主人は彼らに向かって次のように述べる。

「友よ、わたくしはあなたに対して不正をしてはいない。あなたはわたくしと一ペニーで約束したではないか。自分の賃金をもらっていきなさい。わたくしは、この最後の者にも、あなたと同様に払ってやりたいのだ」(マタイ福音書第、二〇章一三~一四節)。こう語り終えた後イエスは次のようにこの話を締めくくる―《このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる》。この最後の言葉によって我々は単なるヒューマニズムから大いなる逆説(パラドックス)へと突き落される。ここにおいて通常の合理的基準が全く逆転されてしまっている。道徳では良い行いをした人は必ず報われると説くが、神の愛においては善人であるゆえに救われることはなく、同様に悪人であるがゆえに救われないこともない。この世の中での優劣関係は一切無効になる。だが、それは一体なぜなのか、我々はこう問わざるを得ない。そしてこの問いの前に立ち尽くす人のみが善悪の彼岸にある倫理と名づけられた領域に足を踏み入れることができるのである。

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なぜ聖書は永遠に読み継がれるのか―『カラマーゾフの兄弟』から『塩狩峠』へ

投稿者: akizukiseijin : 5月 16, 2009

 

1.ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』の可能性の中心を読む

ここ数年私の父は代表的な文学作品を立て続けに読んでいる。彼が作品を読み終わるたびに、私達はその本について批評し合うということを極自然に行ってきた。ある日、彼が19世紀ロシアの文豪ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読んでいるという話になったときに、こんな会話のやりとりをした。

父:「いまだいたい3分の2くらいまで読み終えたけど、一体このカラマーゾフ家の父親殺しの犯人は誰なんだろう。」
私:「もしかしてこの人かもという予想はできるでしょう?」
父:「うん、とりあえず長男のドミトリーに容疑がかけられてるけど、3兄弟のうち誰がやってもおかしくない。皆が父親を憎んでいたからね。でも、真犯人は3兄弟の他にいるんじゃないかって気もするんだ。」
私:「例えば誰?」
父:「あのスメルジャコフが怪しいね。彼は同じ父親の腹違い子なのに息子と認めてもらえず使用人として扱われてきたんだから。」
私:「そうだ、当たりだ。犯人はそのスメルジャコフだ。彼が一家の主人フョードル殺害の犯人だよ。」
父:「え、やっぱりそうか。」

いきなりここでネタばれしてしまった父の微妙な表情。だがなおも私は会話を続けた。

私:「うん、でも誰が殺してもおかしくなかったよね。実際、スメルジャコフは次男イワンに向って、あなたがそう望んだから自分が代わりに殺したのだって語るセリフがあるよね。確かにある意味ではこの3兄弟全員が犯人だった。たまたまそれを実行したのがスメルジャコフだったに過ぎないのさ。」
父:「すべての人に責任があるっていうこと?」
私:「そう刑法上の責任ではなく、倫理的な形而上学的な責任がね。」
父:「それはどういうこと?」
私:「例えば、戦後多くのナチス協力者がニュルンベルク裁判で絞首刑にされた。ただ自らはユダヤ人迫害や殺害に手を染めなかったドイツ人も何らかの心の負い目を感じざるを得なかった。いうなれば民族全体がある種の罪責感を抱えていた訳だね。それが嘘偽らざるドイツ人の戦後の姿だった。」
父:「なるほどね。よく分かるよ。戦後日本国民もある意味同じ罪責感に囚われていたからね。」

少し沈黙の時間が流れた。父はこんな話になろうとは思ってもいなかったようだった。やがて私は核心的な話を切り出した。

私:「ドストエフスキーの文学が現代の予言書と呼ばれている所以が分かったかなぁ。この物語では、我々の心の中に潜む何かがある一人をして「父」=「神」殺しを犯させた。ただ誰しも俺が手を下していたかもしれないと自分を疑ってしまう。まさしく倫理的な、形而上学的な罪責感に囚われてしまう。そして、これこそ現代におけるアメリカの9.11同時多発テロや日本の派遣労働者の若者が起こした秋葉原連続殺人事件に遭遇して、自分もそうなることを望んだと心のどこかで思ってしまう瞬間なんだ。だってこの世の中はあまりに不公平じゃないか、と。」
父:「つまり、このテーマはまさしく現代社会の問題だということ?」
私:「そう、しかもそれはたんに対岸の火事ではないし、社会の客観的な真理の話じゃない。もっと自分自身に問うべき問題だ。」
父:「一体何だっていうの?」
私:「要するに、真犯人スメルジャコフの正体はこの私だということ。いいかえればこれを読んだあなたがスメルジャコフの正体だったんだ。」

2.三浦綾子『塩狩峠』におけるキリスト教の核心

こうした会話のやりとりをした後で、私は自分自身がこう考えるきっかけをくれた読書体験のことを語り始めた。それは作家の三浦綾子の『塩狩峠』におけるまさに彼女自身の信仰告白との呼べる印象的なシーンだった。この作品は北海道の塩狩峠が舞台で駅員で敬虔なクリスチャンである永野信夫が自らの命を犠牲にして、乗客の命を救った実話をもとにしている。このシーンはまだ信仰に入る前の信夫がある伝道師から初めてキリストの教えの核心を突き付けられる場面だ。

私:「主人公信夫はキリスト教伝道師伊木一馬を自宅に呼んで、イエスこそ人格を超えた神格を備えた存在であることを信じると告白する。無実でありながら十字架に架けられ、しかも自分を殺そうとする人たちのために《父よ、彼らを許し給え、その為す所を知らざればなり》と祈ることができる。この人こそ神の子であると深く感動したんだ。」
父:「それでキリスト教信者になったの?」
私:「いや、まだ。彼は伊木伝道師にこう問われるんだ―《しかしね。君はひとつ忘れていることがある。君はなぜイエスが十字架にかかったかを知っていますか》。それに対して信夫はこの世の罪を背負うためにと答える。そして伊木はこう告げる―《そうです。そのとおりです。しかし永野君、キリストが君のために十字架にかかったということを、いや、十字架につけたのはあなた自身だということを、わかっていますか》と。」

ここで父はコーヒーを入れるために少し休憩をとった。やがて、キッチンから彼が戻ってきて、チョコレートと一緒にブラック・コーヒーを運んできた。それを飲みながら、父は満足そうにして、やがて私の方に向き直った。

父:「それでどうなったの?」
私:「信夫ははじめどうしてもそれが信じられないんだよ。自分はそんなことした覚えはないと言ったら、それじゃあなたはキリストとは何の縁もない人間ですって、ばっさり切り捨てられちゃって。この重要な対話部分を読み上げてみるね―《先生、ぼくは明治の御代の人間です。キリストがはりつけにされたのは、千何百年も前のことではありませんか。どうして明治生まれのぼくが、キリストを十字架にかけたなどと思えるでしょうか》、《そうです。永野君のように考えるのが、普通の考え方ですよ。しかしね、わたしはちがう。何の罪もないイエス・キリストを十字架につけたのは、この自分だと思います。これはね永野君、罪という問題を、自分の問題として知らなければ、わかりようのない問題なんですよ(略)》。」
父:「信夫は自分自身をさほど罪深いとは思っていなかったわけだね。」
私:「そう、でもここからが大切なんだ。キリストの処刑を自らの犯した罪と受け止めることによって、人は時代と空間を超えて、古代のイェルサレムでのイエスの死に立ち合うんだ。そうすることによって、キリストの存在は彼らにとって遠く離れた昔の出来事ではなくて、今・ここで起こっている出来事に変わるんだ。こうして人々がこの出来事に自ら罪びととしての意識を持って同時代性を感じ続けるからこそ、キリスト教の聖書は永遠に生き生きとし、人々に読み継がれていくんだ。」

3.なぜ聖書は永遠に読み継がれるのか

二人の話はとうとう架橋に差し掛かりつつあった。父もだいぶ疲れ始めているので、私はこれまでの話をここでまとめて切り上げようと思った。実際彼の瞼はもう閉じそうになっていて、ゾンビと深夜二人で話しているような孤独な心境だった。

私:「キリスト教は、この罪という概念によって、同時代性=永遠性を獲得したんだ。時空間を超えて、読み手がこの出来事を自分自身の問題として受け止めるからこそ、キリスト教の聖書は永遠に古びることがない。この内(この世)と外(あの世)とを繋ぐ回転扉のような聖書という不思議な書物は後にも先にも現れないだろうな。これこそ人類史上普遍の傑作であり、後のダンテやゲーテ、そしてドストエフスキーに至るまで今日の文学はこの形式を反復しているに過ぎないと言うこともできるからね。」
父:「(半分眠りながら)なんか難しくなってきたね。つまりどういうこと?」
私:「まあ要するにいつも言っていることだよ。つまり、文学であれ歴史であれ本を読むときには、それを単にストーリーや内容を追うものとしてではなく、自分自身だったらどうするかという主体性が大切なんだよ。だってあらゆる偉大な書物はこれはお前のことだよって挑発しているんだからね。その挑戦にどう応答するかが読書の醍醐味じゃないのかな。」

父は眠気で恐ろしい顔になり始めた。何だか心配で話に集中できない。

父:「ああ、自分に置き換えて読めということだね。」
私:「そう。文学でも科学でも、今流行っていることを書くのが真理の探究じゃない。ましてや、終わったことをつらつら書くのが歴史じゃない。むしろ、いま・ここで生きているこの私が、過去や現在そしていまだ来らぬ未来の現実を必然としてではなく、自由として捉えられるか。いいかえれば事後的に固定したものではなく、事前的に変化し得るものとして捉えるかで歴史の見方は大きく違ってきてしまう。もしそう考えられたなら、なぜ、どのようにして、このような現実が生まれたのかを把握した上で、これを変えていくことは可能かと考え、そしてもう一つの現実へ向かって行動していくことができる。あの随分眠そうだけど大丈夫?」
父:「う、うん。でも難しいよね。学校で教わる歴史って昔の話をただ暗記しているだけになりかねないからさぁ。」
私:「確かに我々は歴史というものを過去、現在、未来という連続した直線のように考えがちだけど、しかしキリスト教は「罪」という概念を軸にして、キリストの死を自ら身に引き受けることによって、現代に生きるているはずが何千年前の処刑の場面に一瞬タイムスリップしてしまうんだ。さらに、真のキリスト教徒であれば未来さえもいま・ここと質的に並び立ったものとして眺めることができる。だって、過去が過去として固定されていず、こちらの主体性によって変化するものならば、未来も固定したものではなく、我々の係り方如何によって変化するものとなるはずだからね。キルケゴールはこのように罪を引き受けた瞬間に過去とも未来とも同時代性を感じてしまう時間の係り方を永遠と表現したんだ。」

しばらく沈黙があった。なぜか私の方が取り残された様な妙にシュールな気分を味わう。すると次の一瞬、父は夢の世界からこの世界へ舞い戻ってきて何かしゃべった。

父:「うん・・・そうか。」
「もう少し厳密に言えば、これはキリスト教の中でもさらに新教(プロテスタント)特有の視点であるという気がしてならないよ。なぜなら、カトリックや特にユダヤ教は本質的に過去に現れた救世主(メシア)への繋がりを持ち続けている。それに対して、プロテスタントのエッセンスは本質的に過去ばかりでなく未来へと質的に飛躍(ジャンプ)することによって永遠とかかわることなんだ。いずれにしてもこの時期、信仰者にとって普遍的な倫理(神)は存在するかという宗教改革の問いは、科学実験による普遍的な真理の探究とも並行している。そして同じ時期にこのプロテスタンティズムの倫理が資本主義の精神になったことも忘れてはいけない。確かに資本主義は、お金を今すぐ使ってしまうのではなく、自分や会社の事業拡大のために投資し、未来においてその何倍もの利益を生み出そうとする特徴がある。ただ、これは社会を進歩させもするけど、逆にそれが加速化すれば目先の利益を追求するだけに陥る。この意味で先のウェーバーの表現をもじって言えば、現代はプロテスタンティズムの倫理なき資本主義に陥っている。このまま本当にこの先やれるのか心配だよ。今後は文明史的立場からこの科学と資本主義に立脚した国民国家のゆくえを宗教を軸にして再吟味してみたいと思うんだ。」

気づくともう父はソファで寝入っていた。私の半分ほど残ったコーヒーも冷めてしまっていた。「キリストを殺したのはあなただ」という声だけがいまだ残響のように耳に響いていた。

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