投稿者: akizukiseijin : 12月 9, 2009

もしある人が、そういった観念をいだいて、自分の隣人はだれなのかを問うならば、その人にとって、パリサイ人に対するキリストの答えは全く異常としか思われないような返答をするのである。…すなわち、キリストは憐れみ深いサマリア人の譬えを語り給うた後に、パリサイ人に問い給う(ルカ一〇の三六)。「この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」と。そしてパリサイ人は「正しく」答えた。「その人に慈悲深い行いをした人です」と。その意味はこうである。…すなわち、「その人に対してわたしが義務を負っている人、その人が私の隣人なのであり、わたしが自分の義務を果たすならば、そのときわたしは自らがその人の隣人であることを示すのである」と。
キリストの語り給うたことはつまり、だれが隣人であるかということを知るということにかかわる問題なのではなくて、サマリヤ人がその慈悲深い行ないによってしたように、自分自身が隣人となるということ、自分自身を隣人として示すということにかかわる問題なのである。なぜなら、サマリヤ人はこの行為によって、襲われた人が自分の隣人であったことを示したのではなくて、自分が襲われた人にとって隣人であったことを示したからである。(略)
誡めは「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」と語っているのであるが、正しく理解するならば、それはこれとは逆のこと、すなわち「正しい仕方で自分自身を愛せよ」ということをも語っているのである。それゆえ、もしある人がキリスト教から自分自身を正しく愛することを学ぼうとしないとするならば、その人は隣人を愛することもできないのである。その時でもたぶん彼は、いわゆる生死を賭してひとりの人あるいはもっと多くの人たちと結び合うことができるでもあろう。そのことはしかし、決して隣人を愛することにはならないのである。自分自身を正しい仕方で愛することと、隣人を愛することとはぴったりと相応しているのであって、畢竟全く同一のものなのである。
律法が「自分を愛するように」という言葉でもって、残念ながら確かにキリスト教がすべての人間のうちに事実として前提せざるを得ない自己愛を君からもぎとったときに、君はまさに自分自身を愛することを学んだのである。それゆえ、律法は、君が自分を愛するように隣人を愛するときには、きみは隣人を愛するように君自身を愛さねばならぬ、というのである。
…それゆえ、隣人愛の誡めは同一の言葉(すなわち、「自分を愛するように」)のなかで、隣人に対する愛と自分自身に対する愛とのことを語っているのである。かくてまた、この講話は、自らが考察の対象にしようとしたところのものに到達したのである。つまり、隣人愛の誡めと自己愛の誡めの両方がそこからでてくる共通の根底は、単に「自分を愛するように」という言葉であるばかりでなくて、さらにそれ以上に、「汝なすべし」という言葉でもあるのである。
そういうわけであるから、わたしたちは、この後の方の言葉すなわち、
汝愛す「べし」―という言葉について語りたいと思うのである。なぜなら、キリスト教の愛が、愛することが義務であるという一見矛盾と見えるものを含んでいること、このことこそまさに、キリスト教の愛の特徴であり、それのもつ独自性であるからである。―セーレン・キルケゴール『愛のわざ』(キルケゴール著作集15、白水社、40~43頁)
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投稿者: akizukiseijin : 12月 9, 2009
キェルケゴオルの言う〝愛〟とは、神の愛に対する人間の壮烈な登攀であり、キリストによって具現された犠牲愛の極致を目ざす苦難に満ちた遠征である。彼の要求する〝愛〟は、人間にとって不可能な限界に接している。これは、近代が宿命的に背負った言語に絶する不幸の中にあって、清らかで美しくあるために苦しまねばならぬ多くの人々に捧げられた永遠なる〝愛の生命と摂理〟の書。―キルケゴール『愛について』新潮文庫、芳川檀訳、訳者序文
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投稿者: akizukiseijin : 11月 23, 2009
“神の愛に応え得る人間はおりますか?どういう人間が神を愛したというのでしょうか?(答)かかる人間は存在しない―というのがキリスト教の教えです。私もそれに同意します。アガペーは神のみのもの、人間の持つものはエロース(形而上学の高い意味の)である―との、ニイグレンの研究や、波多野先生の「宗教哲学」第四章二節のエロース論参照。(アガペーは「他者規定」「他者実現」を原理とする)三十九、四十、「時と永遠」第七章一節、エロースとアガペーお気分の良いときにお読み下さい。
つまり、神は我々の外にあり、我々を包摂するものであるのですから、簡単に言えば提灯に釣鐘とつりがね―以上の絶対的な意味での比較を絶しています。つまり、恐ろしい重荷でもありますが、神は人間を愛するが、その愛に応え得る人間は存在しない―のです。ですから、「どういう人間が…」の質問は意味のないことです。
波多野先生の三部作を綾ちゃんに差し上げるについて、「時と永遠」の扉に次の言葉を私は書きたく思っていました。―《イエスこの世を去りて父に往くべき己が時の来れるを知り世に在る己の者を愛して極みまでこれを愛し給えり。(ヨハネ伝十三章一)の「世に在る…」以下です。「極みまで之を愛し給えり」この言葉を、人間同士の愛にも使える人ははたしてあり得るでしょうか?”-三浦綾子『生命に刻まれし愛のかたみ』(新潮文庫、六〇~六一頁)
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投稿者: akizukiseijin : 11月 15, 2009

“新しい天使(アンゲルス・ノーヴス)と題されたクレーの絵がある。それにはひとりの天使が描かれていて、この天使はじっと見つめている何かから、今まさに遠ざかろうとしているかに見える。その眼は大きく見開かれ、口はあき、そして翼は拡げられている。歴史の天使はこのような姿をしているにちがいない。彼は顔を過去の方に向けている。…私たちの目には出来事の連鎖が立ち現われてくるところに、彼はただひとつ、破局(カタストロフ)だけを見るのだ。その破局はひっきりなしに瓦礫のうえに瓦礫を積み重ねて、それを彼の足元に投げつけている。きっと彼は、なろうことならそこにとどまり、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せ集めて繋ぎ合わせたいのだろう。ところが楽園から嵐が吹きつけていて、それが彼の翼にはらまれ、あまりの激しさに天使はもはや翼を閉じることができない。この嵐が彼を、背を向けている未来の方へと引き留めがたく押し流してゆき、その間にも彼の眼前では、瓦礫の山が積み上がって天にも届かんばかりである。私たちが進歩と呼んでいるもの、それがこの嵐なのだ。”―ヴァルター・ベンヤミン<歴史の概念について>(浅井健一郎・訳)
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投稿者: akizukiseijin : 11月 15, 2009
……唯物論的に見通しの利く文化は、唯物論的により率直になったのではなく、単に低級になったにすぎない。この文化は、おのれ自身が特殊性になるのにともなって、それがかつて他の特殊性と対立した際もっていた真理の塩をも失った。この文化にその責任を問うたところで、否定されるだけで、単に文化的もったいぶりが確認されるにすぎない。しかし今日では、すべての文化的伝統が、中性化され、しつらえられた文化として、なきに等しいものになっている。ロシア人たちが自分たちはその遺産を相続したと殊勝げに喧伝しているその遺産も、取り返しのつかない過程を通じて、その大半がなくてもいいもの、不用なもの、屑となった。すると次に、文化をこういう屑として扱う大衆文化の荒稼ぎ屋たちが薄笑いしながらそれを私的できることになる。社会がより全体的になれば、それに応じて精神も物象化されてゆき、自力で物象化を振り切ろうとする精神の企ては、ますます逆説的になる。宿命に関する最低の意識でさえ、悪くすると無駄話に堕するおそれがある。文化批判は、文化と野蛮の弁証法の最終段階に直面している。アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である。そしてそのことがまた、今日詩を書くこおが不可能になった理由を語り出す認識を浸食する。絶対的物象化は、かつては精神の進歩を自分の一要素として前提したが、いまそれは精神を完全に呑み尽くそうとしている。批判的精神は、自己満足的に世界を観照して自己のもとにとどまっている限り、この絶対的物象化に太刀打ちできない。-テオドール・W・アドルノ(渡辺祐邦・三原弟平訳)「文化批判と社会」、『プリズメン』(ちくま学芸文庫、1996年)。
「根源とは目標である」という保守的に聞こえる命題の中には、「根源の概念は、その静的な在りもしない姿を捨てるべきだ」という考えすらも言い表されている。それは「目標は根源へと還ることである。あるいは<善き自然>という幻想に戻ることである」と言っているのではない。そうではなく、「根源はただ目標に対してのみ与えられる、それは目標から始めて構成される」と言っているのである。この束の間の人生を除いてどこにも根源などありはしない。―アドルノ 『否定弁証法』(作品社、一九九六年)
永遠につづく苦悩は、拷問にあっている者が泣き叫ぶ権利を持っているのと同じ程度には自己を主張する権利を持っている。その点では、「アウシュビッツのあとではもはや詩は書けない」というのは、誤りかもしれない。だが、この問題と較べて文化的度合いは低いかもしれないが、けっして誤った問題でないのは、アウシュビッツのあとではまだ生きることができるかという問題である。偶然に魔手を逃れはしたが、合法的に虐殺されていてもおかしくなかった者は、生きていてよいのかという問題である。彼が生き続けていくためには、冷酷さを必要とする。この冷酷さこそは市民的主観性の根本原理、それがなければアウシュビッツそのものも可能ではなかった市民的主観性の根本原理なのである。それは殺戮を免れた者につきまとう激烈な罪科である。その罪科の報いとして彼は悪夢に襲われる。自分はもはや生きているのではなく、一九四四年にガス室で殺されているのではないか、現在の生活全体は単に想像のなかで営まれているのではないか、つまり二十年前に虐殺された人間の狂った望みから流出した幻想ではないのかという悪夢である。―アドルノ 『否定弁証法』(作品社、四四〇~四一頁)
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投稿者: akizukiseijin : 11月 8, 2009
聖霊の働きによって固有の存在様態(Seinsweise)は、我と汝の交わりである。したがって聖霊の視座から、キリスト教の主題である愛について論ずることが可能になる。愛は自己を否定して他者のために生きることであるが、これがアガペーであり、自己の主張を貫くエロースとは異なる。しかし、アガぺーもエロースも、人間にとって生得の性質ではなく、人間に対して出来事として生起する。
換言すると、アガペーは神の像に相応しい人間のあり方として生起するのに対して、エロースは神の像に逆らった人間のあり方として生起する。第八章「神の選び」の中で言及したように、人間の本来的あり方は交わりと和解であり、孤独と滅びは人間の非本来的あり方であるが、この二つのあり方がアガペーとエロースに対応する。エロースは、神と隣人に対して自己を閉じている人間のあり方である。そして孤立した人間にとっては、愛はエロースであり、この愛の主体と客体は同一の自我である。したがって自閉的な人間にとっては、神も自閉的な存在と映る。その結果、エロースのあり方をする人間は自己中心的な生き方をし、神も自分とは関係のない空虚な存在と考える。しかし神は実在している。つまりキリストの愛に応答しない孤独の人間に対しては、神は自己を隠している事実に、われわれが気づかないだけのことなのである。
さてアガペーは、自己を他者へ与えることであるが、他者の中に自己を失うことではない。なぜならば、他者の中に自己を失うならば、主体と客体は再び同一となり、エロースのあり方に逆戻りするからである。真の意味で自己を他者に与えることは、脱自的に生きることであり、隣人との交わりの中に脱自的に生きる人間の存在根拠は三位一体の神の交わりである。そして人間のあり方が神のあり方を反映し、神の像(姿)を実現するまでに人間を導くのは聖霊なる神である。聖霊は、自発的な愛の行為へとわれわれを解放し、神と人間、人間と人間の交わりを確立する。この愛と、交わりが神の創造と救済の本質であり、愛は過去、現在、将来を結ぶ絆(きずな)なのである。―大島末男 『カール・バルト』(清水書院、212~3頁)
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投稿者: akizukiseijin : 11月 4, 2009
詩は、言葉の一つの現象形態であり、したがってその本質からして対話的である故に、いつかどこかの陸地に、もしかして心の陸地に打ちあげられるかもしれないという、かならずしも希望にみちているとはいえない信念のもとに託された投壜通信といったものなのかもしれません。詩はこうした点でも途上にあります。詩は何かを目指しているのです。―パウル・ツェラン 「ブレーメン文学賞受賞講演」より
マンデリシュタムはそこで詩人とジャーナリストの言葉の違いに言及する。詩人の言葉は誰にも向けられていないのに対し、ジャーナリストのそれはいつも具体的な一定の人々、同時代人や同世代人、隣人に向き合い、また一般社会よりも高いところに立って教え導くというのである。しかし、詩人は卑近な相手は拒むけれども、未知なる人、特定できない遠くの人、後から生まれる読者に賭ける。不可視の、しかしながら存在する対話者を必要とするのである。対話者としては誰もいないけれども誰かいる、という否定と肯定の間に揺れる詩の、浮遊する中間者的あり方をマンデリシュタムは投壜通信のイメージで描き出す。
ひとには誰にも友人がいる。何故詩人は自分にとにかく一番親しい人間である友人を相手として書いてはならないのか。―船員は生きるか死ぬかの時に、自分の名と自分の運命を書いたものを壜に入れて封印し、海中に投げ込む。長い年月がたった後に砂丘を歩いているとき、私はそれを砂の中に見つける。私は手紙を読み、今になって行方不明者の遺志と事件の日時を知る。私にはそうする権利があったのだ。私は他人宛の手紙は開封したことがない。壜の中にあった手紙はその発見者宛だったのである。私は壜を発見した、ということは私が謎の隠れた受取人というわけである。
「僕の才能など取るに足りない、それに僕は有名でもない、/でも僕は生きている―/僕の存在を貴重に思ってくれる/誰かがこの世にいてくれるから。/僕よりはるか未来のひとが僕の詩のなかにそれを/再び見つけ出す、すると僕の魂は―/誰がそれを知りえよう―そのひとの魂と結ばれる。/僕は友人は僕の世代に見つけたが、/読者は未来に見出すだろう。」
バラチンスキーのこの詩を読むと、私はそうした投壜通信を手に入れたような気持ちになる。途方もない原始の力のすべてをそなえた海のはたらきにより、それは私の手に届いたのである。―海がこうして力を貸すことは予定された運命であり、神の摂理がここにはたらいたという感じが発見者の心をとらえる。船員は壜を海中に投げ、バラチンスキーは彼の詩を手放す。両方の出来事にとって表現の動機は二つとも完全に同じで共通する。その手紙は詩と全く同じく、特定の人に向けて出されたものではない。それにもかかわらず両者は受取人をもつ。手紙にとってそれは偶然砂の中に壜を発見する人であり、詩にとっては「未来の読者」である。引用したバラチンスキーの詩句を読んで、例えば思いがけず名を呼ばれたときのように嬉しさと不気味さがまじり合った戦慄が背すじを走らない人がいたら知りたいものだ。―森治 『ツェラーン―人と思想』(清水書院、1996年、157~8頁)
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投稿者: akizukiseijin : 10月 7, 2009
“若さを保つことや善をなすことはやさしい すべての卑劣なことから遠ざかっていることも だが心臓の鼓動が衰えても なお微笑むこと それは学ばれなくてはならない”―ヘルマン・ヘッセ
「そんなとき、好きな仕事や意義のある仕事にもどれる人、愛する人びとのところに、どこかの故郷に帰ることができる人は幸いだ!それができない人、この幻想が壊れてしまった人は、そのあとはじまる寒さを避けてベッドに這い込むか、旅に逃れる。そして漂泊者としてあちこちで、故郷をもち、社会をもち、自分の職業や活動を信じている人びとがどんなふうに働き、どんなふうに努力し苦労しているかを眺める。そして彼らのすべてのよき信仰とすべての努力の上にゆっくりと、こっそりと次の戦争の暗雲が、次の革命の、次の破滅の暗雲がたれこめるのを眺める。それは、怠け者と、信仰をもたぬ者と、失望した者だけにしか見えない。―希望のない楽観主義のかわりに苦い真実へのささやかでこまやかな老人の偏愛を選んだ、年をとってゆく人だけにしか見えない。」(ヘルマン・ヘッセ『人は成熟するにつれて若くなる』、岡田朝雄訳、草思社、一九九五年、二三頁)
「情熱は美しいものである。若い人には情熱がとてもよく似合うことが多い。年配の人には、ユーモアが、微笑みが、深刻に考えないことが、世界をひとつの絵に変えることが、ものごとをまるではかない夕雲のたわむれであるかのように眺めることが、はるかにずっとふさわしい。」(同書、六四頁)
「成熟するにつれて人はますます若くなる。すべての人に当てはまるとはいえないけれど、私の場合はとにかくその通りなのだ。私は自分の少年時代の生活感情を心の底に持ち続けてきたし、私が成人になり、老人になることをいつも一種の喜劇として感じていたからである。」(同書、六五頁)
「青年にとって必要なことは、自分自身を真剣に考えることができることである。老年に必要なことは自分自身を犠牲にできることである。なぜなら、老年には自分以上に真剣に対処すべき何物かがあるからである。私は信仰箇条を表明するのは好きではないが、精神的な生活はこの両極の間で進行し、展開されなくてはならないと確信している。なぜなら、青年の使命と、あこがれと、義務は生成であり、成熟した人間の使命は自我の放棄、あるいはドイツの神秘思想家たちがかつて名づけたように、《自己離脱》(エントヴェールデン)である。しかし、そもそも自己を放棄することができるためには、人間は一人前の人間、つまり独自の個性を完成するための覚醒の苦悩を切り抜けて、成熟した人格を獲得していかなくてはならない。」(同書、九二~三頁)
「過ぎ去ったことにこだわったり、それを模倣したりすることが私たちにとって重要なのではなく、変化に対応できる能力をもって新しいことを体験し、力をつくしてそれに参加することが必要であろう。その限りでは、悲しみは損失に執着するという意味でよいことではなく、真の人生の目的にかなうものではない。」(同書、九六頁)
「私たちがひとつの生活領域に慣れ親しみ くつろぎを覚えるやいなや 衰退の危険がさし迫る 出発と旅の用意のある者のみが 麻痺的な習癖から身を振りほどくことができる おそらく死の時が私たちを若者として 新たな段階に送ってくれるであろう 私たちへの生の呼びかけは決して終わらないだろう さあ 心よ 別れを告げよ 元気を出せ!」(同書、一〇一頁、「段階」より)
「人は高齢になると、過ぎ去った長い生涯を独特の考察の仕方で回顧するものである。私の人生の後半は、劇的で、闘争に満ち、敵が多く、苦難に満ち、最後はあまりにも多くの成功に満ちていた。けれども、このおちつかない半生を切り抜けるための力は、もっと静かだった最初の半生、つまり私が体験することを許されたほとんど四十年になんなんとする平和から生まれたものである。戦争はひとつの試練だといった人がいるけれど、私の経験からすると、人を進歩させ、力を与えるのは平和のみである。」(同書、一〇四~五頁)
「すばらしい魔力、万物が変転するという燃えるように悲しい魔力よ!しかし、それよりもはるかにすばらしいのは、過ぎ去ってしまわぬこと、存在したものが消滅しないこと、それがひそかに生きつづけること、そのひそかな永遠性、それを記憶によみがえらせることができること、たえずくりかえし、それを呼びもどす言葉の中に、生きたまま埋められていることである。」(同書、一〇六頁)
「これは、よく世間で、「子どもっぽくなる」という、あの行動である。これはかなり当たっている。私自身、知らずに、やむをえずたくさんの子どもじみた反応を周囲に向かってしていることを疑わない。それでもそれらは、観察の結果わかったことだが、いつも無意識的に、やむをえず行われるわけではけっしてない。老人によっては、子どもじみたことや、非実用的なことや、割に合わないことや、遊び半分なことなどが、完全に(あるいは半ば?)意識的に、一種の遊びの楽しさでなされることもあるのだ。」(同書、一二七~八頁)
「この世は私たちにもうほとんど恵みを与えてくれない。この世はしばしばただもう喧騒と不安から成り立っているようにしか見えない。けれど草や木はそれでもやはり成長する。たとえいつか地上がすっかりコンクリートの箱で覆われてしまうようなことがあっても、雲のたわむれは相変わらず存在するであろう。そしてあちこちで人間は芸術の助けをかりて神性なものに通じる扉を開けておくであろう。」(同書、一四二頁)
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投稿者: akizukiseijin : 11月 28, 2008
アレクシス・ド・トクヴィル『アメリカのデモクラシー』第二巻
一人の人間の知性が他の人間の知性に働きかける作用について言えば、市民がほとんど同じになっても誰もが親しく付き合うような国、争い難い偉大さや優越性を誰にも認めず、真理の最も明白で身近な源泉として絶えず自分自身の理性に立ち返る国にあっては、そのような作用は必然的に強く限定される。このとき、ある特定の人間への信頼が失われるだけでなく、およそ他人の言葉を信用しようという気がなくなる。(段落)誰もがだから固く自分の殻に閉じこもり、そこから世の中を判断しようとする。(同書、第二巻、(上)、一九頁)
アメリカ人はだから彼らの哲学の方法を書物に求める必要がなかった。自分自身の中に発見したのである。ヨーロッパでかつて起こったことについても同じように言えるであろう。(同書、二〇頁)
一八世紀の哲学の方法はだから単にフランス的なものではなく、民主的なものである。これこそ、それがあれほど容易にヨーロッパ全体に受け入れられ、その様相を一変させるのに大きく貢献した理由を説明する。フランス人はその古き信仰を変え、古き習俗を改めることによって、世界を覆したのでは決してない。それは彼らがはじめて、一切の古き事物を攻撃し、あらゆる新しきものへの道を開くのに役立つ一つの哲学の方法を広め、明確に打ち出したからなのである。(同書、二二頁)
平等の世紀に生きる人々に好奇心は多いが、暇は少ない。彼らの生活は実用的で複雑であり、絶えずせかされ活動的である。そのため、ものを考える時間がほとんどない。民主的な世紀の人々が一般観念を好むのは、それが個別の事例を検討する手間を省いてくれるからである。そうした観念は、このように言うことができるとすれば、多くのものごとを一つの小冊子に取り込み、わずかな時間で大きな成果を挙げる。手早くざっと調べるただけで、いくつかの対象の間に共通の関係を認めたと思うと、人々はそれ以上研究を進めず、このさまざまな対象が互いにどう似通い、どう違っているか詳細に検討することなく、急いで全部を同じ定式にくくって、先へ進む。(同書、三九頁)
過去の世紀の土地貴族制は従者を援助しその貧困を和らげる義務を法に負わされており、でなくとも習俗がこれを義務づけていると感じた。だが、今日の工場貴族制は、使用人を貧乏にして、意欲を奪い、その後、恐慌になると、この人々の扶養を公共の慈善に委ねる。これは先に述べたことから当然に生ずる。労働者と雇用主の間に頻繁な関係はあるが、真の結合はない。(同書、二七四頁)
民主的国家における自由を破壊しようとするものはこれを達成するもっとも確実で最短の手段は戦争であると知るべきである。これは学問の第一の公理である。(同書、第二巻、(下)、一八四頁)
民主的世紀の人間は自分と同等の隣人に従うことに極度の嫌悪感を覚えざるを得ない。彼は隣人が自分より優れた知識をもつことを承認しない。隣人の正しさを疑い、その力に猜疑の目を向け、彼を恐れ、かつ蔑む。ことあるごとに、二人とも一人の主人共通に服していることを彼に感じさせようとする。(同書、第二巻、(下)、二二三頁)
ヨーロッパの現代の諸国では、私がこれまで示したすべての原因とは別のある大きな原因が絶えず働いて、主権者の行動範囲を拡大し、その大権を増大している。人はこの点について十分警戒してこなかった。この原因は平等の進展が促す産業の発展である。(同書、二四三頁)
国家は第一の産業家であるだけでなく、ますます、他のすべての産業家の指導者、否、その主人となる傾向がある。(二四六頁)
現代人は二つの相反する情熱に絶えずとらわれている。指導されたいという欲求を感じ、同時に自由のままでありたいという願望ももつ。この相反する衝動のどちらも消すことができないので、彼らは両者を一度に満たそうと努める。単一の、人を後見する全能の権力、ただし市民が選挙で選ぶ権力を想い描くのである。彼らは集権制と人民主権を結びつける。このことは彼らをいくらか安心させる。後見人を自分で選んだことを思って、甘んじて後見を受ける。鎖の端をもつのは一人の人間でも一つの階級でもなく、人民自身であることを見て、誰もが鎖につながれるままになる。(同書、二五八頁)
民主的諸国民にきわめて自然で、非常に危険なもう一つの衝動は彼らを個人の権利の侮蔑と軽視に導く衝動である。(段落)一般に、人々がある権利に執着し、これを尊重する理由は、それが重要であるか、彼らが長くこれを行使してきたことによる。民主的諸国民における個人の自由は通常ほとんど重要ではなく、ごく最近に得られたもので、非常に不安定である。そのため、人はしばしば簡単にこれを犠牲に供し、これを侵害してもほとんどいつも後悔しない。(段落)ところで、この同じ時代、それも人々が個人の権利にある自然な侮蔑意識をもつような国民において、社会の諸権利は自然のうちに広がり、強固なものになることがある。すなわち、私人の諸権利がどんなに僅かでも残る限り、これを保持し擁護することがもっとも必要なその瞬間に、人々はこれへの執着を失ってしまうのである。(段落)それゆえ、われわれが今ある民主的な時代にこそ、自由と人間の偉大さの真の友は、絶えず毅然と立って、社会の権力がその計画を全体として実行するために若干の個人の私権を少しでも侵害することのないよう、備えを怠ってはならない。このような時代にはどれほど無名の市民であっても、その抑圧を放置することは非常に危険であり、どれほど重要性のない個人の権利も権力の恣意に委ねることは許されない。その理由は単純である。個人の私権を侵害しても、この種の権利は重要かつ神聖であるという観念が人間精神に深く浸透している時代ならば、被害をこうむるのはこれを奪われたものだけである。だが、今の時代に、同様の権利を侵害すれば、深く国民の道徳を傷つけ、社会全体を危険にさらす。この種の権利の観念がわれわれの下では不断に変質し、失われつつあるからである。(同書、二七二頁)
今日最大の危険は放縦か暴政か、無政府状態か専制か、これを絶対的一般的な形で言うことはできない。どちらも同じように恐れるべきであり、個人主義の帰結たる一般的アパシーという同じ一つの原因から同じように容易に出てくることがあり得よう。このアパシーあればこそ、執行権がいくらかの力を結集すれば、圧政が可能になり、次の日、一党派が三十人の者を隊列に組むことができれば、この党派もまた圧政を揮うことができるのである。どちらも永続的なものは何一つ築くことはできず、成功に導いた要因が長期の成功を妨げる。それらが立ち上がるのは抵抗するものがないからであり、崩れ落ちるのは支えるものがないからである。(段落)戦うべき重要な相手は、だから無政府主義や専制というより、両者をほとんど差別なく生み出すことのあるアパシーである。(同書、補説、二九三頁)
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投稿者: akizukiseijin : 11月 27, 2008
アレクシス・ド・トクヴィル『アンシャン・レジームとフランス革命』
民主的専制と呼ばれる、中世にはまったく思いも及ばなかったこの特殊な形態の専制のことを、重農主義者たちはすでに心得ている。社会の階層化ととに階級差別が進み、身分が固定化した。しかし、民衆はほとんど類似した、完全に平等な個人からなる。まさにこののっぺらぼうの大衆は、唯一合法的な主権者と認められてはいるが、すべての権利―政府を自ら指導し、監視することさえできるすべての権利―を周到に奪われている。この大衆の上に存在するのは、大衆の名において、大衆にことわりなくすべてを行う責務を負った、ただ一人の受託者である。この受託者を統制するものは、器官なき一般の理性である。阻止するものは、法律ではなく革命である。彼は、法律上は従属的代理人であっても事実上は支配者なのである。(『旧体制と大革命』小山勉訳、三四二~三頁)
重農主義者たちは、この理想に適うようにみえるものをまだ周囲に見出すことができないので、それを極東に探すことになる。彼らの著書のここそこで、中国のことを大仰に賞賛していない者は一人もいない、といっても過言ではないだろう。それを読んで、少なくとも必ず気づくことがある。当時中国はまだまだ未知の国だったので、その国について語られる内容はおおむねつまらない話ばかりである。一握りのヨーロッパ人が意のままに操るあの愚かで暴虐的な政府は、重農主義者たちの目に、世界の全国民が模倣できる最もすぐれたモデルと映ったのである―すべてのフランス人のモデルは、その後イギリス、そして最後にアメリカとなるのであるが。偏見のない絶対君主が、有益な技術を奨励するために自らの手で土地を耕す。こんな国を想像して、重農主義者たちは感動し、まるで有頂天になっているかのようだった。その国では、すべての官職は文官試験〔科挙〕によって取得される。宗教は哲学しかなく、貴族階級はすべてが文人である。(同書、三四三頁)
今日社会主義という名で唱道される破壊的理論は最近のものである、と一般に信じられているが、それは間違っている。この理論は、初期の重農主義と同じくして現れている。初期の重農主義者たちは、自ら夢想した全能の政府を社会形態を変革する際の基準にした。それに対し、その後の重農主義者たちは、社会の土台を破壊するために想像の世界で同じ権力を奪取した。モレリーの著書『自然の法典』を読めば、国家の全能とその無限の権利に関する重農主義者たちのすべての理論とともに、最近フランスを最も震撼させた政治理論、今日初めて登場したかのように思われている政治理論のいくつかを見出すだろう。その理論とは、財産の共有、労働の権利、絶対的平等、全体的画一性、個人の行動の機械的規則性、規則による専制、市民的個性の社会への完全な埋没、などを謳ったものだ。(同書、三四三~四頁)
実は、中央集権と社会主義は同じ土壌の産物である。両者の相互関係は、栽培果実と実生の若木との関係に似て緊密なものだ。(同書、三四四頁)
一般的に言われてきたところによれば、一八世紀の哲学の性格は、ある種の人間理性崇拝―すなわち、思いどおりに法律、制度、習俗を変えることのできる、人間理性の全能を限りなく信頼すること―だった。よく理解しなければならないのは、一部の哲学者が崇拝しているものが、実のところ、人間理性というよりは自分自身の理性だった、という点である。彼らほど、民衆の知識を信頼していない者はなかった。神と同じくらい民衆を軽蔑しているしている者を何人か挙げて、その内実に言及することができるだろう。彼らは神に対しては敵としての、民衆に対しては成り上がった者としての傲慢さを露わにした。多数者の意思に対して心底からの敬意を払って従うこと、それは神の意思への服従と同じく、彼らの与り知らないものだった。以後、革命家たちはほとんどみな、この二つの性格を示していた。イギリス人とアメリカ人が同国の多数者の感情に払ったあの尊敬とは、まさに雲泥の差があった。両国人の場合、理性は誇り高く自信に溢れているが、横柄であることがない。フランス人の理性は新しいかたちの隷従を創出するだけだったのだが、両国人の理性は自由をもたらしたのである。(『旧体制と大革命』小山勉訳、注解六四、五一六頁)
アレクシス・ド・トクヴィル『アメリカのデモクラシー』第一巻
デモクラシーを教育し、できうればその信仰を蘇らせ、習俗を純にして、その動態を規制し、実務に知識でデモクラシーの未熟を次第に補い、盲目の本能に代えてその真の利害を知らしめる。さらに、民主政治を時と所に適したものとし、状況と人間に応じて修正を加える。これらが今日、社会を指導する人々に課される第一の義務である。(段落)すべてが新しい世界には新たな政治学が必要である。(『アメリカのデモクラシー』序文、松本礼二訳、第一巻、(上)、一六頁)
ヨーロッパの多くの国では政治の動きは社会の上層部でまず始まり、それが少しずつ、しかもつねに不徹底な仕方で社会全体のさまざまな部分に伝えられてきた。アメリカでは逆に、群(カウンティ)より前に自治体(タウン)が、州より前に群が、そして連邦より前に州が組織されたということができる。〔トクヴィルは、フランスの地方行政単位「市町村」を意味するla communeの語を米国のtown、townshipに当て、また両者を含む一般概念として「地域共同体」の意味でも用いている。本訳書ではフランスについては「市町村」(コミューン)、米国については「タウン」とし、一般的意味の場合は「(地域)共同体」と訳し分ける。なお「タウン」と「タウンシップ」は同義だが、ニュー・イングランドでは一般に「タウン」が用いられる。〕(同書、六五~六頁)
中国は、極度に集権化された行政がこれに服する人民にいかなる種類の安楽を提供することができるか、そのもっとも完璧なシンボルであるように私には思われる。旅行者たちが述べるところでは、中国人の静謐には幸福が欠け、その産業には進歩がなく、安定していても力がなく、物理的秩序は保たれても公共の道義に欠ける。彼らにあって、いつでも社会はそれなりに運営されているが、見事に運営されることは絶えてない。中国がヨーロッパ人に開放されたなら、ヨーロッパ人は世界中に存在する最もすばらしい行政的集権のモデルをそこに見出すであろう、と私は想像する。(同書、第六章原注(五〇)、三四八頁)
私としては、アメリカで見た限り、そのように考えることはできないと言わねばならぬ。合衆国に着くとすぐに、私は被治者の中にすぐれた人はいくらでもいるのに、為政者の側にはそれがどれほど少ないかに驚いたものである。今日、合衆国では、最上の人物が公職に呼び出されることは滅多にない。これは確かな事実であり。しかもデモクラシーがかつてのあらゆる限界を超えるにつれて一層そうなってきたと認めねばならない。アメリカの政治家の質が、この半世紀、著しく低下したことは明らかである。(同書、第一巻、(下)、五三頁)
そのうえ、民主政治に欠けているのはすぐれた人物を選ぶ能力だけではない。ときにはその意志も好みもないことがある。(同書、五四頁)
合衆国では民衆は、社会の高い階級を別に憎んではいない。だがこれにほとんど好意をかんじてはおらず、注意深くこれを権力の外においている。民衆はすぐれた才能を恐れはしないが、好んでもいない。一般に、民衆に支持なしに立つ者がその好意を得ることは困難だといえる。(同書、五五~六頁)
民主政治の自然な本能が民衆をして卓越した人物を権力から排除せしめる一方、これに劣らず強力なある本能によって後者は自ら政治的経歴から離れていく。というのも、すぐれた人物にとってこの世界に留まりながらまったく自分を変えず、堕落せずに進むことは難しいからである。(同書、五六頁)
普通選挙こそよい政治家を選ぶ保証だと考える者が完全な幻想に囚われていることは、私にははっきり証明された。普通選挙には別の利点があるが、この点ではない。(同書、五六頁)
アメリカでは多数者が思想に恐るべき枠をはめている。その限界の内側では作家は自由である。だが一歩その外へ出れば、禍が降りかかる。火刑に処されるのを恐れねばならぬわけではないが、ありとあらゆる嫌悪の対象となり、毎日迫害の憂き目を見る。政治の道は断たれる。その道へ彼を導きうる唯一の力に逆らったからである。何を求めても彼は拒絶され、栄誉も名誉も与えられない。意見を公にする前には支持者があると信じていたのに、天下に見解を明らかにしてみると、支持する者は誰も眼に映らない。彼を非難する者は声高に叫ぶが、彼と同じ考えの者は口にする勇気がなく、沈黙し、遠ざかっていくからである。彼らは譲歩し、やがて日々の圧力に屈し、まるで真実を語ったことを悔いてでもいるかのように、沈黙に返る。(同書、一五四頁)
今日、地球上に、異なる点から出発しながら同じゴールを目指して進んでいるように見える二大国民がある。それはロシア人とイギリス系アメリカ人である。(中略)アメリカ人は自然がおいた障害と闘い、ロシア人は人間と戦う。一方は荒野と野蛮に挑み、他方はあらゆる武器を備えた文明と争う。それゆえ、アメリカ人の征服は農夫の鋤でなされ、ロシア人のそれは兵士の剣で行われる。(段落)目的の達成のために、前者は私人の利益に訴え、個人が力を揮い、理性を働かせるに任せ、指令はしない。(段落)後者は、いわば社会の全権を一人の男に集中させる。(段落)一方の主な行動集団は自由であり、他方のそれは隷従である。(段落)両者の出発点は異なり、たどる道筋も分かれる。にもかかわらず、どちらも神の隠された計画に召されて、いつの日か世界の半分の運命を手中に収めることになるように思われる。(同書、四一八頁)
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