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‘コラム’ カテゴリーのアーカイブ

組織における「アウトサイダー」の役割

投稿者: akizukiseijin : 8月 16, 2009

pilgrims%5B1%5D2009年7月7日読売新聞朝刊が報じたように、大学共同利用機関「統計数理研究所」の全国調査でイライラする若者が増えているという。同研究所は「バブル崩壊後に続く景気低迷の影響」がその原因とみている。その結果、職場の人間関係を見直したり、家族を大切にしたりする人々が増え、閉塞感を覚えつつ、心のよりどころを模索する国民の姿を浮かび上がる。また特に注視すべきなのは「あの世を信じる」は第2回調査(58年)の2倍近い38%だったという今回の調査結果である。

このような状況下で、今やさまざまな新興宗教に入信する人々が増えているのではないかと考えることは決して杞憂ではないだろう。例えば、キリスト教に関しても「エホバの証人」や「統一教会」の活発な勧誘活動、そしてそれ以外でも「幸福の科学」が選挙に向けて政党を立ち上げたことは記憶に新しい。確かにこうした新興宗教は現世来世に関する独自の教義によって人々をひきつけるがゆえに、その他の組織とはやや異色である。だが、そうした極端なものからこそ、我々の社会におけるあらゆる組織の論理に潜む落とし穴を拡大してみることができるのではないだろうか。ここで広く一般の教会も含めたカルト化という現象を手掛かりに、我々の社会のより深い問題に光を当ててみたいと考える。

まず私が主張したいのは、この教会のカルト化という現象が日常の至る所で見られるということである。例えば私が以前通っていた大学院でこんなことがあった。そこではゼミの先生を中心にして、そこに信者のような学生が群がり独自の集団形成をしていた。そこでは教授の意見は絶対で、反論することはあり得ない。時に私のような部外者がそんなのおかしいんじゃないなどと言おうものなら、感情的になってくる。ここで興味深いのは、ここでは決して秘教的なテーマが扱われているわけではなく、ただの近代文学についての世俗的なゼミであるという点である。

人は自らが正しいと信じたことを否定されることに嫌悪を感じる生きものである。ましてや、若者はまだまだ視野が狭く、あらゆる知識を相対化する柔軟な姿勢を身につけていない。すると、自分が心酔した人物の意見が絶対で、それに歯向かう者に敵意を持つ。ヘーゲルは『精神現象学』の中で、自らを否定してくるのもに対して眼をそむけず、直視しろと述べたが、実際はそうなっていない。そうなると人はどうなるだろうか。私の経験では彼らは一種のノイローゼ状態になるのである。精神の成長の階段をのぼっていくことを拒み、間違いを間違いと認めることを拒否した結果、精神が奇形化し、いつしか健全な精神を養えなくなるのである。大学という場がこのような危険性を孕んでいるということはもっと認識されていい。

これに対する一つの処方箋は閉じた集団やグループの中に外の風を入れる通気口を備えつけておくことである。組織といものは極めて不思議だ。なぜなら、必ずそこでは御山の大将のようなリーダー格がいて組織内での序列が出来上がってしまっている。面白いのは、そこで大きな顔をしている人に限って、決まって井の中の蛙だということである。大海に出ることをせず、小さな組織の中で幅をきかすことに喜びを見出しているからかもしれない。そこに外部者が現れるとこの組織は忽ち混乱する。今までのルールから外れた見方や思考をする人間はいなかったからだ。本当はそこで対話や議論という営みが始まるというのに。

経営学者のドラッカー曰く、こうした組織におけるアウトサイダーの存在は企業経営にとっても重要であるという。例えば企業では全会一致では本当にあらゆる可能性を検証しきれていないのではないかというしるしであり、またそれが市場で失敗したときの別の選択肢を誰も考えられないと言うことになる。こうした組織は一見強固に見えるけれども、実は振動に弱くすぐに瓦解する。そのことを熟知しているがゆえに、彼は組織における違う意見を持つ人、いわゆる「アウトサイダー」の存在を重視したのである。

また、彼は教会や学校やボランティア団体の経営のアドヴァイザーとして長年活躍してきた経験から、そうした市場の審判を受けにくい任意団体(ボランタリー・アソシエーション)こそ、つねに組織の外部=社会性に開かれている必要があると強調する。なぜなら、自分たちは利益ではなく善きことのために働いているんだという意識のメンバーが集まっているだけに、かえって「ガバナンス」(経営管理)が見過ごされ、自分達の活動は「社会にどれだけ貢献しているのか」という指標を軽視し、フィードバックがなされないからである。

こうした組織に共通した問題を打ち破るのは、「外部」である。それは、「社会性」と言い換えても良い。つまり、自分達の活動が社会にどれだけ貢献しているのか役立っているのかという声を真摯に聴く機会を少しでも多く持つことである。あらゆる組織は社会性を必要とする。それは「教会のカルト化」を防ぐためばかりでなく、「日本のカルト化」を防ぐためにも重要なのではないだろうか。

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にせの預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである。―マタイによる福音書、第七章第一五節

投稿者: akizukiseijin : 7月 5, 2009

Adam_and_Eve008改革派と呼ばれる政治家であれ、経済学者であれ、また保守派と呼ばれる政治家であれ学者であれ、誰もが自分の政策こそは日本を良くするものだと主張する。

もっとも、それはあくまで彼らの目線から見た「良くする」なのであって、決して万人にとっての普遍的な幸福でないのは言うまでもない。しかし、にもかかわらず彼らが時として我こそは真理なりと自称してはばからないように見えるのはなぜか。

例えば、小泉・竹中両氏は、「改革なくして成長なし」というスローガンの下、経済理論に基づいた一連の民営化政策を断行した。そしてそれ以上に、彼らは改革の副作用として人々に経済至上主義的な価値感を植え付けた。

実は、彼らの背後にあったのは、アメリカの一九八〇年代のサッチャー・レーガン改革と同様に、豊かな社会の段階に入った日本に現れ始めたこの国の富裕層(勝ち組)であった。彼らは質の低い公共サービスを嫌い、民間のサービスを利用するために減税を求め、投資のための有利な条件を整備していった。その一方で、労働条件や福祉などは二次的な問題として顧みられることはなかった。

彼らは日本のためを考えてと言うが、おそらく彼らの「日本人」という概念の中に多くの庶民は含まれていない。それに踊らされて人々は小泉・竹中両氏こそ日本経済の救世主と信奉したことは悲劇である。

間もなくこの国の衆議院選挙が始まる。その際、我々が肝に銘じておくべきことは、やはり次の聖書の一節に見事に言い尽くされている教訓だろう―「にせの預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである。」―マタイによる福音書、第七章第一五節

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ポストモダン・ライフスタイル論

投稿者: akizukiseijin : 6月 29, 2009

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“すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。”―マタイによる福音書第一一章第二八節

現代人の暗黙のスローガンは、まさに「時は金なり」である。この言葉の意味するところは結構深い。つまり、今や時間に関する考え方と貨幣に関する考え方が人々を縛り付けているということだろう。その結果、誰もが忙しいし、また忙しいふりもする。なぜなら、現代の都市生活では完全に何もすることがないことがあたかも罪悪のように感じられる瞬間があるからだ。また金にならないことに時間を使うのは無駄だと多くの大人は刷り込まれ、また子供にもそうした考えを知らず知らずに伝染させてしまってはいないだろうか。

つい2、3年前私は海外から洋書を注文した際、こんな経験をして驚いた。それは大晦日を家族とともに過ごし、元旦を迎えて朝食をとっていると、ペリカン便の配達夫がやってきて本をお届けにあがりましたという。私はびっくりして代金を支払い、本を受け取った。彼はよくこのエリアを中心に配達してくれている優しい感じの中年のおじさんで、「ありがとうございました」と笑顔で言うとまた配達の車に戻っていった。私は欲しかった本が届いた嬉しさと、彼が家族と元旦を一緒に祝う時間を奪ったことに後ろめたさを同時に感じた。便利の裏側で泣いている人がいるかもしれないと思うようになったのはこのときからだ。

また最近仕事で浦和に出かけていた時、駅前の道路で若い女性がチラシを配っていた。私は歩きながらも、彼女の説明が耳に入ってきた。それは駅前にオープンした足のマッサージのリラクゼーションルームのビラ配りだった。確かに今やこんな情景は珍しくもないが、そのとき私は、「癒し」というやや抽象的なサービスが現代人の間で確実な需要を見込める事業として定着していることを思い知った。癒し系サロンなんて一昔前には考えられもしなかった職業だ。でも、なぜ昔の人はそれがなくても少しも困らなかったのだろうか。私たちはこれを進歩と呼べるのだろうかと、こんなことを取り留めもなく考えながら歩き続けた。

確かに、グローバル競争だ、自己責任だと叫ばれて久しいこの時代において時間を無駄にする人間はそれだけで敗者であるかのように扱われる。書店に行けば無駄なく効率的に勉強する方法や、100億稼ぐ仕事術などが平積みにされている。その一方で、悩む力などという滑稽なタイトルの本が飛ぶように売れているという。

しかし、こうしたアンビバレンスな現象を眺めていると、一体人々はどっちに進みたいのかと世の中につっ込みを入れたくなってくる。だってそうだろう。現代社会の中で、お金を儲けようとすれば時間を節約しなければならず、逆に豊かな人生の時間を過ごしたいとすれば、仕事術なんていう本は脇にどけなければならない。近代資本制経済の段階で両方を同時に手にすることは不可能なのだ。まるで自分で自分の生活を苦しくしているようなものだ。カネもなくゆとりもない生活へ人々はズブズブとはまり込んでいるのではないのか。

みんな自分自身のことに掛かり切りになって、周りを見渡す余裕もないように見える。彼らはみな努力することを知っている。でも彼らが知らないのは、適度にうまく力を抜くコツではないのだろうか。私にはそう思えてならない。そして、何より現代の労働条件の変化によって直接的にもたらされたもの、それは「休息」の意味の変容である。人々はこの変化に薄々気づいているが、どうしようもなく満たされない自分がそこにいる。

実は、彼らが「休息」についてまだはっきりと見抜けていないことがある。すなわち、それが身体的な疲れを癒すことであるだけでなく、むしろ心の重荷を取り去るためのものだということである。では、そうした心の癒しは何処で手に入るのだろうか。私はそれがリラクゼーションルームの個室でないことだけは断言できる。なぜなら、孤独や不安を癒す力は、同じパンを食べるという意味のcom -panyの語源にもあるように、仲間と一緒に食事をしたり、語らったりして共有するひと時のなかにあるからだ。言い換えれば、他者と共有する時間のなかに癒しもまた存在する。哲学者のイバン・イリイチもまた現代の都市生活に欠けたものとして「共同のくつろぎ」(conviviality)の重要性を強調している。

このように考えると我々はある逆説に逢着する。それは自分の余った時間を他人のために使う人間の方が、それを自分のためだけに使う人間よりもかえってくつろぎや充実感を受け取るというパラドックスである。一度それを失った人間の方が後でそれをより多く取り戻すことは聖書が何度も強調している真理でもある。経験則からも分かるように、自分のためだけに生きている人間とは案外脆く、馬力も出ないものである。本当に生きている人とは家族のため恋人のため友人のため神のために働き、そこからかえって充足を得ている。

では、我々はいかにしたらこういう生き方ができるのだろうか。今までと違ったライフスタイルを選びとることは可能なのだろうか。もちろん私は可能だと考える。それは自分中心の生き方から、他者中心の生き方へ転換することだ。それは自分を利するためだけに生きるのではなく、すべての他者を自分よりも優れた者として尊重し、彼らのためになることをしようと考えることである。例えば、困った人や弱い人を見つけたら蹴飛ばすのではなく、背中を押してあげられるようになることである。そのような態度の変化は必ず周囲の人たちを明るくするだろう。そして、人間関係を円滑にしてくれ、いつの間にかあなたの存在が共同のくつろぎで満たされたものになると約束しよう。

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休息と労働について

投稿者: akizukiseijin : 6月 7, 2009

アダムとエバ“神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。”―「創世記」 第二章第三節

旧約聖書の創世記では神は創造の七日目に休息をとられた。また、出エジプト記でもモーゼの十戒の中に同様の教えが刻まれている。神は人間への愛によって、労働から解き放たれているべき安息日をお与えになり、またその日の糧をもお与え下さったのである。だから人間は日曜には肩の荷を下ろし、主とその教えに向き合い、感謝を捧げるべきである。その結果、私たちは月曜の朝の仕事をまた順調に始めることができるのである。

それは単に神の教えと言うだけでなく、医学的にも人間の生命のリズムにあっている。たとえば、かつてアメリカのゴールドラッシュのとき労働者の間で、七日目に休む人とそうでない人がいた。休まない労働者は短期的には成果を上げられたが、やがて体調を崩してしまった。それに対し、七日目に休みを取った労働者は持続的に働き、そして生活していくことができたそうである。

しかし、現代の労働観はこの原因と結果を履き違えてしまっているのではないだろうか。つまり、神は本来労働から解放するために休みを与え、教会で人々を癒してくだされた。その結果、我々は元気に働いていける。それに対して、現代人はまず何よりも明日働くために休む。だから、その貴重な休日も精神的な不安やストレスですり減ってしまうのである。

私は、休息とは日常経験の世界とは切り離された特殊な領域であると考える。すべての活動の中断とは、それ自体出来事であり、まさしく神聖な時間といえるからである。このような生活リズムを作っていかないことには我々は心身ともに疲弊してしまうだろう。このように我々は祖先の時代から、日々のルーティーン活動の外に、あえて祝祭のような外部を作り出すことによって、システムを安定させる智慧を今日まで受け継いできた。このことを現代人は再認識するべきではないだろうか。

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友愛について

投稿者: akizukiseijin : 5月 1, 2009

grunewald_crucifixionフランス革命以来、友愛は狭い共同体内での同胞愛(ナショナリズム)と同一視される向きがあった。つまり、ピラミッド型の権力構造をとることなく平等な人々の間にある水平的な連帯である。

私が最もこの狭い意味での友愛を印象付けられた作品は、ハーマン・メルヴィルの『白鯨』である。そこにはともに捕鯨船という外界から隔てられた空間で、契約した船員たちがそれぞれの役割によって互いに結び付いて機能している姿がある。まさしくここにはアメリカという国の底流にあるリーダーなき民主主義、いやそれ以上に自由な諸個人の連帯という意味でのアナーキズムが象徴化されている。

もし仮に友愛がこうした狭い共同体内での横の連帯のみを意味しているのならば、それは一般性に留まり、普遍性には届かない。つまり、同じ同胞のことは気遣うが、ひとたび国境を越えてしまえば隣国がどんな悲惨な目にあっていようとも構わないことになる。それゆえにそうした狭い共同性を超えようとしてプルードンは友愛を否定しようとしたのだ。日本の哲学者・柄谷行人は『世界共和国へ』の中で、彼は友愛を否定し、競争を肯定したと述べる。なぜなら、「彼の考えでは、競争が否定されれば、個人と自由が否定されることになる」からである。

そして、それに代わってプルードンが提唱するのは、「富の格差を生み出すことがないような交換システム、つまり、自由の相互性の実現」だという。この自由な個人が相互扶助を行っていく社会的ネットワークを「アソシエーショ二ズム」と名づける。これが一般のNGO・NPOの活動と異なるのは、単に資本制経済を補完する組織としてではなく、権力や不平等を生みだす生産関係・流通関係に地域通貨などを導入することによってメスを入れようとする社会改造の原理に基づいている点である。

しかし、歴史的に見て次のことに注意を向けることが肝要である。すなわち、このアソシエーショ二ズムと呼ばれる「富の格差を生み出すことのないような交換システム、つまり、自由の相互性の実現」は常に宗教(倫理)の次元の運動として発生してきたという事実である。例えば、戦前のキリスト教の社会運動家・賀川豊彦は、今日の生協の原型をつくり、日本の生産・消費協同組合運動の嚆矢となった。その際、彼の社会改良運動の原理となった思想がプルードンによって否定された「友愛」であったことは興味深い。

まさしく同じ運動の方向を志向している者同士が、一方で友愛を否定し、他方で友愛を肯定している。一体、なぜこんなに矛盾し合ったことが起こるのであろうか。実は賀川におけるキリスト教の文脈における「友愛」が狭い政治的な文脈でのそれを超えてしまっているからなのである。それはまさしく永遠にしてグローバルな運動になる可能性を秘めている。

キリスト教において、元来人と人との横軸の関係は不安定なものであり、争いが絶えない。だが、キリスト教は神の独り子であるイエスを地上に遣わすことによって、神と人という縦軸の関係を導入する。そして、何より重要なのは、神というこの絶対で無償の存在が人類の罪を一身に背負って、十字架の上で贖ってくれることによって人々がともに救済されるという新たな視点を打ち出していることである。これこそがキリスト教における博愛であり友愛の意味するところである。それはまさしく神と人という縦軸を介して、人と人とが連帯するという横軸が交わる十字架のようである。こうした意味での「友愛」の考え方はこれからの社会をつくる上でとても重要である。

なぜなら、人間と人間の契約関係のみに縛られた私たちの社会は簡単にこの約束を破断にできると思っている輩が多くいる。それゆえ、耐震偽造や製造年月日や産地の偽造、そして離婚の増加に至るまで人間社会の絆は脆くなり不和で満ちている。それはこれまでの議論を踏まえれば、私たちの社会が横の関係だけで、絶対なるもの(神)と自分との縦の関係が欠如していることに起因しているのではないだろうか。人間を超えた何者かへの畏怖がなければ、人間は傲慢になり、秩序は守られないだろう。だからこそ私はいま社会が宗教(倫理)の次元での友愛の重要性を再認識すべき岐路(ターニングポイント)にさしかかっていると考えている。それゆえ政治や経営や市民運動に携わる心ある人たちに「友愛のすゝめ」を提言したい。

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歴史を見る国民から、歴史を創る国民へ

投稿者: akizukiseijin : 4月 4, 2009

vanishingpointa現代の難問である貧困格差・環境破壊・戦争を政府や市場のいずれかによって乗り越えようとする試みは数多い。

経済学で言えばケインズ主義とも呼ばれる財政政策(フィスカル・ポリシー)とフリードマンを中心とする金融政策(マネタリー・ポリシー)の対立である。彼らの理論は極めて精緻で、統計的なデータに基づき、具体的な提言を含んでいる。だから、専門家以外の人にはおよそ近づき難いという印象を与える。まして世界不況の最中で、ますます我々は事態を静視せざるを得なくなっているようにさえ見える。

しかし、この二つの政策に共通して欠けている点は、一体これからどんな国をつくっていくのかというグランドデザインがないことである。これにはもちろん政局の混乱が影を落としていることは間違いないが、いずれにしてもそれを決めるはずの主権者たる国民の議論が全くと言っていいほど不在なのである。

現代文明の挑戦は、民営化という名の市場中心型モデルでもなく、硬直した中央集権的官僚制モデルでもない、第三のオルタナティブを提示できるかにかかっている。それは生活のあらゆる面での消費者の行動、NGO・NPOの活動、そして国際機関の活動など様々な市民の運動からなっている。こうした当事者である国民や市民の主体的な議論や活動によって、はじめて歴史は織り成されていくのである。

ただし、歴史を重視する立場は、古い共同体的生活様式に戻ることでもなければ、保守主義者のいう近代以前の伝統に回帰することでもない。ましてや宗教原理主義に基づいて先進国の消費文化を批判することでもない。

私にとってそれは人類の様々な歴史を多様な迂路を辿りながら「文明化」していく過程として捉えることに他ならない。さらに言えば、テクノロジーの発達や人口の移動による世界交通が拡大するのに伴って、多様な民族や文化が交流・伝播しながら生成し消滅する。そして、その中から幾つかの文明が創造されるという普遍史として考えられた歴史である。いま、日本人は自国がゆるやかに衰退していくのか、それとも新たな文明と呼べるものを築けるのかという岐路に立たされている。

少子高齢化の時代に既得権益層と化した老人に抗して、新しい時代をつくることは確かに容易ではない。だが、プラグマティカルに各々の持ち場で何がいま必要なのかを判断し、世界を1ミリずつ変えていければ、120キロ先へ世界を動かすことができるだろう。それならば、かつての60年代の喧噪と80年代以降の沈黙を抜けて、我々は次のスローガンを唱えなければならない。―「歴史を見る国民から、歴史を創る国民へ」。高度経済成長を終え、日本がアジアに先駆けて成熟した文明を創っていけるかどうかは、この一点にかかっている。

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「民営化」という神話への挑戦―思考のプラグマティズム

投稿者: akizukiseijin : 4月 2, 2009

資本主義が我慢できるものになるには、貧しい人々にとって生活が我慢できるものであるようにしなければならない―ジョン・ケネス・ガルブレイス『実際性の時代』

国家政策の一部を、民間に任せるか、あるいは政府に任せるかという議論がしばしばなされる。それに対して効率性という観点から、多くの経済学者はできるだけ市場に委ねるべきだと発言する。特に1980年代のアメリカ・イギリスにおけるレーガン・サッチャー改革以降、日本では中曽根、小渕、小泉以降この流れが顕著である。この結果金融を中心とする急激な経済発展の裏で、両国でどれだけ多くの労働者が教育や医療といった公共サービスが受けられずに切り捨てられていったか。その悲惨な有様はあまり日本で報道されていない。

しかし、民間や市場が効率的でありかつ透明であるという神話は果たしていつ頃から生まれたのであろうか。いずれにしてもこれが神話であったことは少なくともイギリスで保守党はブレア新労働党に政権の椅子を明け渡し、そしてオバマ大統領就任後のアメリカもとうとう開きすぎた格差の問題に手をつけざるを得なくなった歴史的事実が証明している。

本来医療や介護や環境や教育などは短期的に非効率とされようと長期的には維持されていくべき生命線である。ゆえに効率が悪いからこそ、これらは伝統的に政府が担っていくべき役割だとされてきた。にもかかわらず、これらを民営化してしまえばそれは富裕層にしか手の届かなくなるサービスになる。なぜなら企業は利潤が見込める客層にしか興味を持たないからだ。その結果、残されたのは弱者を食い物にする貧困ビジネスだけだという話になるのは当然の流れだ。民営化という神話は、政府が自らの役割を放棄する口実とも採ることができる。

また現代の社会にはもう一つの経済神話が存在する。すなわち、国際競争力という神話である。企業は国際競争を勝ち抜くために社員の人件費を低く抑える必要があると説く。社員も自分の会社が潰れるのはまずいからその待遇を受け入れざるを得ない。やがて、社員はアウトソーシングされ派遣やアルバイトに置き換えられる。その結果、企業が国際競争に勝ち残ったとき、生き残ったのは経営者と株主だけになる。少なくとも国際競争を勝ち抜いた見返りとしての莫大な利益は社員や派遣には還元されず、彼らのポケットに落ちることになる。

かつての経済学者は、官僚主義的な社会主義でもマネタリスト的な市場原理主義でもなく、政府と市場を組み合わせた混合経済(Mixed Economy)こそが現実的な政策であるというバランスのとれた考え方があった。例えば、60年代に活躍しハーバード大学でも教鞭をとったケネス・ガルブレイスや同じくそこで学んだ都留重人などである。彼らの世代は世界恐慌や第二次大戦の影響もあり、社会主義と同時に資本主義へも等しく批判の目を向けていた。その結果、経済は複雑になるに従って、一貫した合理的基準を持ち出すことは危険であるとみなした。それらはイデオロギーで決められるのではなく、むしろプラグマティカルに個々具体的に決められるべき問題だと。

したがって日本が学ぶべき点は、政府か市場かというゼロサム的な発想ではない。市場に適する部門と政府に適する部門を組み合わせて、トータルで最良な国家づくりを目指すことである。例えば、福祉や教育を充実させる際に、どのくらいの負担なら国民の理解を得られるか、さらにその負担に見合った良質のサービスを公共機関がいかに提供できるかを国民が話し合う、こうした成熟した市民社会をまず作り上げなければならない。そして民主主義的な手続きを通して、何が公的な領域であり、何が私的な領域であるかをその都度判断した上で、それに基づいて政治家や官僚が政策を行う。こうした主体性と責任を国民が養うことが出来てはじめて、先の見えない未来を私たちは手探りで進んでいくことができるのである。

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ポストモダン・テロリズムと日本の言論空間

投稿者: akizukiseijin : 3月 23, 2009

10036871263_s1人はパンのみで生きるにあらず、神の言葉によって生きるのである―マタイ福音書

 かつてアメリカの国際政治学者フランシス・フクヤマは、東西冷戦の終わりを、歴史の終わりと規定し話題を呼んだ。それはソ連の崩壊によって社会主義対資本主義というイデオロギー対立が終わり、今後は経済的な問題だけが争われるという予言であった。確かに世界は不均等に発展しているので、こうした見方は途上国や新興国には当てはまらないケースが多い。しかし、こと先進国に限って言えば彼の予言は当たった。まさしく世界不況の中で、「政治」という言葉を操る人間固有の領域が見えなくなりつつあるからだ。

先日NHKで「テレビはどうなっていくのか」というテーマの討論番組を観る機会があった。実はこの番組を企画した背景には、インターネットの登場によってテレビの終焉がもたらされるのではないかという危機感があった。現代の変化の波は構造的なものであり、それゆえ危機は努力論や道徳論で解決できる問題ではない。いや、そのはずだった。当然視聴者は視聴率に囚われすぎている点など製作者サイドに厳しい注文をつけた。しかし、当の制作者はこれからもいい番組を作っていきますという主張に終始した。特に昨今のやらせ報道などが話題に上ったとき、各局の製作者は、他の部署のそういう点はいけないと思うけれども、自分は自分の番組を真剣に作っていると述べた。

ここから透かし見えてくるのは私の近年の疑問と繋がっている。つまり議論の場における「本質論」の不在である。まず、人々は各々別のことに興味を持ち生活している。だから、他人の意見に対して熱く議論を交わそうとはしない。どこかしら他人は他人というしらけた態度である。その結果、社会の中に議論が生まれず、人々の意見が方法論にとどまって、本質論まで深まっていくことがない。こういう意味での悪循環が社会を覆っている。学問も専門分化が進み、それぞれが住み分けている状況だ。それらを統合し、では「21世紀の日本をどうするのか」というグランドデザインがなかなか出てこない。

各々が勝手な事を言い、人の話に食いついていかない時代。これこそポストモダンの現象と呼べるだろう。皆自分の人生の物語を紡ぐのに熱中して、社会全体の大きな物語を紡ぐことを放棄してしまっている。その結果、現状に不満を持つ人びとの想いは解消されることなく鬱積し続け、いつかテロやクーデターとなって噴出するだろう。実際、政官財に不満を持つ層は日々増え続けている。現在、270万人の失業者数や3万人の自殺者数は、社会に不気味な影を落しつつある。

では、どうしたらよいのだろうか。私はどんなに無力でも圧倒的な「言葉」を社会に復興するしかないだろうと考えている。すなわち、言論に思想と哲学を復興することである。オバマ大統領の演説が示したように、言葉は深い現実に触れたとき、人々の間にすさまじい反応を呼び起こすことができる。現代の専門家はこの言葉の持つ喚起力をあまりにも馬鹿にしている。また、言論に哲学を復興させるとは、自論(テーゼ)と反論(アンチテーゼ)を正面から受け止めてそれに引き裂かれながら、解決(ジンテーゼ)を見出す弁証法的かつ複眼的な思考を身につけるということでもある。少なくとも、自分のまだ知らない世界がどこかにあるはずだという、断定を避ける開かれた科学的態度に今の学者は立ち戻らなければならない。

現代文明の変化は構造的で、それゆえ小手先の方法論では解決することはできない。おそらく、そのことに多くの人は気付いている。ただ、とにかく短期的な目標や利益を上げるのに必死で、そこまで気が回らないのだろう。しかし、それは沈みゆくタイタニック号の乗組員とどこか似ていないだろうか。だからこそどこかでこの流れに棹さす対抗ヘゲモニーを言論界に作り出す必要がある。いまや少子高齢化を迎えいよいよ成熟文明に入った先進国日本は、経済最優先できた社会をchange(変革)すべき時期に差し掛かっている。またそれは戦後一貫してアメリカをモデルにしてきた方針をchange(変革)することをも意味する。むしろ今後は医療・福祉・教育などの面で、個人と共同体の折り合いをうまくつけながら文明を成熟させてきた欧州の様々な実験から多くを学びとるべきだろう。

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われこの国を想う―日本文明の覚書

投稿者: akizukiseijin : 2月 26, 2009

asia_map21世紀日本が新しい独自の文明国として歩むために、主に三つの点が吟味に値します。

1.個人の価値(Value of Individualism)
2.革新と伝統(Reformation and Tradition)
3.小国主義(Little Japanism)

まずアジアが急速に発展する中で、共同体的な価値観と個人の価値観がどんどん乖離してゆくでしょう。その時、人々は変化の試練に耐えていけるか、反動(民族主義・宗教原理主義)へと向かうか否かは重要な問題です。その意味で命運を占う鍵になると思われるのは伝統的にアジアで軽視されてきた「個人の価値」を見直すことです。

次に伝統的に受け継がれたものを壊すことも、古いからと言って残すことも答えにならない。むしろ、秩序の安定のためにもそれがどういう役目を担ってきたのかを合理的に判断した上で、どれを廃止しどれを再利用していくかを決めていくことです。まさに「温故知新」こそ新しい時代のキーワードです。

最後に、バブル崩壊後、高度経済成長を終えた日本が目指すべき文明の形は、「小日本主義」です。かつての大英帝国衰退後の英国がそうであったように、極東の島国として、知徳の面でアジアに存在感を高める。特に、遺伝子工学や環境技術などの面で。

現在、多くの問題を抱えていますが、私は日本は必ずや変われると信じて疑いません。

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バブル崩壊とIT革命の先にあるもの

投稿者: akizukiseijin : 2月 19, 2009

バブル崩壊とIT革命の先にあるもの…

19世紀以来の製造業を中心とした近代のパラダイムがいよいよ終焉を迎えている。政治的混迷はその一つの表徴でしかない。

今われわれに必要なのは現在にとらわれることなく、明治以来の近代化の功罪をしっかりと検証しながら、かつ未来を見据えて、それに備えておくことである。目の前に現れつつある世界はまだ名付けられぬ何ものかである。人々は先が見えないだけに不安に駆られもするだろう。

しかし、唯物論的には、我々の意識すら何らかの物質的な根拠を持っている。したがって、その根拠が根底から変化してしまえば、我々のものの感じ方や思考のスタイルも好むと好まざると変わらざるを得ない。人はどんな環境にあっても順応していく生き物である。そして、どんな生物も生き残るために全力を尽くす。それが宿命なのである。

ではバブル崩壊とIT革命の先にあるものとは何か。それは「少子高齢化」という避けられない波である。政治における民主的選挙、経済における終身雇用、教育における集団授業、メディアにおけるマス・コミュニケーション、これらの制度麻痺は実はここに淵源している。なぜならば、いずれもがマス(多数集団)を前提とした画一的な制度設計であるからだ。だが、近代はたかが120年の産物である。それまでの中世は権力や価値観がはるかに多様化していた。我々の未来もまた中世に回帰するかのように、地方分権体制を特徴とするものとなるだろう。

具体的にいえば、国内では、介護など労働の現場や教育の現場に多くの外国人労働者やその子供が参入し、単一の価値観では物事を処理しきれなくなる。そのため英語はもとよりアジア各国の歴史を教えられる教師を養成・配置しなければならい。対外的には、アメリカのプレゼンスが衰退し、国際政治が多極化してくるために日本の軍事力を揺ぎ無いものとする必要がある。ただし、人口動態で若年の労働人口が減少してくるということは、同時に兵員の数も減少してこざるを得ない。ここでもゆくゆくは外国人によって補填するべきかどうかの選択を迫られるだろう。

だが、物質的に豊かになり、人口が減少してくる先進国で、個々のニーズや要求の高まりと政治的一体性をどう両立させてゆくか。この矛盾ははなはだ大きいと言わざるを得ない。政治的には選挙で勝つためにはどうしても細かい政策よりも一体的なスローガンによって人心を掌握していく。孔子は論語の中で、「民はこれを由らしむべし、知らしむべからず」と述べたがまさに現代政治にこそ当てはまる。情報化した社会の中の見えない情報統制こそが鍵である。

私がいま「少子高齢化」と並んで最も懸念しているのが大学を中心とする「知の職人」の消滅である。インターネットによって情報が行き渡るようになって、逆に事実や言葉が持っていた重層的な歴史性が忘れ去られてしまう。いまがすべてであるという軽薄さ。それによって誰もが学者になれるし、作家になれるし、ジャーナリストになれると嘯く。やがて知識がどんどん表層的になっていく。つまり、たんなる記号になっていくのである。これが一億総娯楽化した日本人が新しい産業を興せない真の理由なのではないか。

経済の専門家と称する人々に警戒せよ。彼らこそ、抽象的な数理によって、歴史を排除することによって、我々の社会を貧しくする。個々の専門的な知識(科学、歴史、政治、経済、芸術等)を統合する「コモン・センス」(常識)こそ最も必要なものである。そして人文学の考え方では、統合する知こそ「哲学」(philosophy)である。多様な技術を組み合わせてゆく知の職人こそが私たちの新しい文明を築く担い手となるであろう。

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