投稿者: akizukiseijin : 10月 28, 2009
日本人はよく「純日本人」、「純粋な日本語」などという言い方をする。例えば、日本の作家三島由紀夫は日本の文化を外国の影響から防衛すべく呼びかけた『文化防衛論』を著した。それは日本の愛国の徒に快く響く音色を持っている。
しかし、本当に一国の文化というものが、他からの影響を受けずに今日まで存在しえたのだろうか。もちろん保守主義者は、日本的な美意識や様々なところに日本の日本たる本質を見出すだろうが、その本質すらもがすでに疑わしい。なぜなら、概念や観念で捉まえられた本質というものすらが、差異を排除して成り立っているからである。
では、日本の歴史において、切り捨てられてきた「差異」とは何か。私見では、それはキリスト教(景教)の影響であり、朝鮮の文化的影響(渡来文化)などである。少し調べただけでも、日本の鎌倉仏教には景教(中国におけるキリスト教の呼び名)からの影響を窺わせる要素が多数含まれている。自力本願から他力本願(ひたすら念仏を唱えるだけで救われる)への価値転換、そして親鸞の悪人正機説(「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」)。これらは難解な律法ではなく、「ただキリストの福音を信じる者は救われるという」新約の新しい教えや、「富める者が神の国に入るのは駱駝が針の穴を通るよりも難しい」という思想といかに酷似していることか。
この影響関係の真偽のほどは今は性急に判断すべきでない。しかし、あらゆる時代を通じて、革新的なイノベーションや価値転換が純粋に一つの共同体の内部から自然発生的に生まれたかのように見なすことは果たしてどこまで正しいのだろうか。むしろそれは権力や制度や組織を通じて意図的に隠蔽されたものなのではあるまいか。自分の身辺を考えてみても、優れたアイディアは、自分一人で頭を抱えていても湧いてくるものではない。他人とのふとした会話や出来事が引き金となって、自分の思考がスパークすると考えた方が自然だろう。ならば、あらゆる文化や歴史の根底には世界交通によってできた外部の文化との接触の痕跡が見出されるにちがいない。
かつて評論家の加藤周一は日本文化を「雑種文化」と規定したが、本来雑種でない文化などあり得ない。おそらくキリスト教が仏教その他に与えた影響と同程度に深く、イスラム教や東方文化の影響がキリスト教には流れ込んでいると見るべきだろう。したがって、21世紀の知識人の課題は自国の「純粋さ」を是認することにあるのではなく、あらゆる事物の根底に「多様性」や「異種混交」を再発見していくことにあるではないだろうか。一見美しい「純粋さ」とは実は他者を排除することによって成り立つイデオロギー(ideology)に他ならないからである。
カテゴリー: エッセイ | 2件のコメント »
投稿者: akizukiseijin : 10月 4, 2009
私は都会の街の中で時々眼鏡をはずして歩いてみることがある。それは単に目が疲れるからという肉体的な理由からだけでなく、むしろ相手の顔や目が見えないことを望んであえて眼鏡をはずしてみることがある。私にとって都会の景色や都会の女性は美しいが、何となく人間らしく見えないし、また少し冷たい感じがするからである。男も女も誰もが肩肘を張って風を切って歩いているように見える。それは見栄と偏見でお互いを意識し過ぎているがゆえに互いを精神的に疲れさせてしまう。
これは映画や文学作品で扱われるテーマだが、よく見える目というものがはたして人間を幸福にするのか、不幸にするのかは見定めがたい。例えばジードの『田園交響楽』の盲目の少女ジェルトリュードのように眼が開き、人間がどんな悲しい顔をしているかを知って、絶望し自殺してしまうかもしれない。もしくは高い知能を持つにいたった白痴の青年が現実に苦悩する『アルジャーノに花束を』。これらは知らないということがときに人間の慰めとなりうることを教えてくれる。いわゆる少年時代こそが最も幸福な期間であったという人々の主張にはこうした感慨が関係しているのかもしれない。いずれにしても、時々眼鏡をはずして街中を歩くと、何となくほっとできるという瞬間があることだけは確かだ。
しかし、詩人リルケが教えてくれるように、「見る」ということはすべての始まりである。我々は見るという行為なくしては何物も知ることはできない。他者のみならず、自分をも知ることはできないだろう。これは言ってみれば当たり前のことである。ただこの当たり前のことが実行するにはどれほど難しいことだろう。それは見るということがいわば肉眼を通して、相手の仮面の裏の素顔、心の内を見抜くかの如き精神的行為であるからだ。それは仮面の後ろにもはや素顔がなく、ハッとしてのっぺらぼうの人間が歩いて行く異様な光景を目にする場面に遭遇することも間々あるだろう。詩人は物質的なありふれたものを肉眼を通して見つめ、そこから一つの比喩や形象をつかみだす。それは時に詩人を疲弊させもするが、喜びも与えてくれる。そのようにして日常のありふれた事物に命を与え、生き生きとよみがえらせることができるからだ。
私たち人間は言葉によって世界を理解し、言葉を通して体験を経験化している以上、言葉の牢獄から逃れることはできない。私たちの使う言葉が陳腐化してしまえば、私たちを取り巻く現実世界も腐食する。何となく変わらぬ退屈な日常の繰り返しという倦怠感におそわれる。もしこの文章を読んでいるあなたがそう感じているのなら、まず「見ること」から学び始めなければならない。そして、世界をもう一度新しい言葉で語り直すのだ。そうすればあなたは世界は同じでも見る視点が変わるだけでこんなにも違って見えるのかと思うことだろう。そして自然の美しさにあっと息をのむかもしれない。
その時、あなたは詩の花園の入口に一歩足を踏み入れている。何よりも精神的、肉体的に行き詰った時には、くだらぬ精神療法などよりこのほうがよほど効き目があるはずだ。
カテゴリー: エッセイ | コメントする »
投稿者: akizukiseijin : 8月 2, 2009
先日、電車に乗っていた時、就職説明会に向かうための高校生の集団にホームで出くわした。彼らは表面的には幸せそうであるが、話している内容は実に深刻であった。それはこの不況下で求人がないため、学校の先生や親に自衛隊に入るように勧められているというのである。その横で定年退職した高齢者たちの旅行に向かう団体の談笑する姿が誠に対照的で、現代日本の光と影をそこに見る思いがした。
聖書を読み始めてまだ間もない時、私が一番最初に感じたことは、一人の偉大な教師イエス・キリストの生涯を通して語られる人間の愚かさ・弱さであった。もし仮にこれほどの深い教えを含んだ新約聖書の物語がすべて作り話で、イエスも実在していなかったとしても、人間は傲慢であるがゆえに、無実な人を罪に陥れて殺すことをしかねないと。例えば、聖書にはそれ以外にもさまざまの預言者の話が出てくるが、「ノアの箱舟」で知られる預言者はこの地上に洪水が来ると警告する。その時も人々は彼を嘲笑し、唾すら履きかねないありさまであった。
「自己責任論」がまかり通るこの世の中で、人は自分さえよければ他人は関係ないという誘惑に知らず識らず陥ってしまう。また自分の才覚だけで勝ち抜かなければならないと思いがちにもなる。そのためだんだん自分が傲慢になり他人の不幸に対して無感覚になっていく。他者とのつながりが希薄になていく。それによって自分の豊かな人間関係もいつしか痩せ細ったものになっていく。そういう人生を私たちはもしかすると歩み始めているのかもしれない。そうした心の隙間を欲望産業が入り込む。昨今流行りの「婚活」(コンカツ)もその一種である。
だが、いつの世も人は決して自分一人では生きていくことができないことは紛れもない事実である。それならば、このような現代社会の流行や自己中心的な人間性に触れるとき、私には「自分さえ良ければという人間の心の弱さといかに対峙していくのか」というテーマこそが現代社会が直面すべき真に重要な問いであると思えてくる。
ではどうやったら人間は自分のことだけでなく、各々他人の幸福をも考えることができるのだろうか。クリスチャンは神というものがあるが、神を失った現代人は何をもって自らの間違いを正す鏡とするのか。まずは自らの弱さを直視しなくてはならない。そこから謙虚さが生まれる。そこではじめて同情を乗り越えた共感に基づいた新しい共同体を築いていくことができるのだ。
カテゴリー: エッセイ | 2件のコメント »
投稿者: akizukiseijin : 7月 12, 2009

“・・・どうか同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、一つ思いになって、わたしの喜びを満たしてほしい。何事も党派心や虚栄からするのではなく、へりくだった心をもって互いに人を自分よりすぐれた者としなさい。おのおの自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。”―ピリピ人への手紙、第二章、第二節‐第四節
わたしは朝、必ず心の中で自分に言い聞かせていることがある。それは、「すべての他人(ひと)を自分よりも優れた者と見なし、心から謙りなさい」という新約聖書ピリピ人への手紙から教えられた大切なメッセージである。
ではなぜすべてなのだろうか。一般的に、自分よりも優れた人もいればそうでない人もいると考えるのが普通だろう。だが、そうした考えは他人を見下し、差別し、そして自らを傲慢にし、人を蹴落とそうとする人間の弱い部分が首を擡げてくる始まりである。だからこそ、私はあえてすべての人と心の中で祈るのだ。
その祈りによって、自分がどれだけ学んでいったとしても、少しも偉くはならないということを知ると同時に他人からも学び続けることができる。学ぶこと、すなわち知性と、信仰、すなわち愛とは密接不可分な人生における二本のレールの如きものである、と私は思う。
しかし、現代人はこのことを忘れてしまったのではないか。他人を批判するときほんの一瞬でも自分の方が偉いと思ってはいないだろうか。もしそうならそんな形で知性を用いるのは今すぐにでもやめてしまった方がいい。相手と自分を共に精神的に貧しくするだけだ。
なぜなら、それは批判のための批判にすぎず、相手の気力や体力を奪うだけの貧しい知性の働きだからだ。むしろ、人を喜ばせるために知性は用いるられるべきだ。わたしは昨今の言論の現状を見て切実にその必要性を認識し直すべき時であるように思う。
主よ、今日も一日が始まります。願わくば知と愛の働きを通して、自分自身ではなく神の御名が崇められますように。わたしの小さな行いによって、一人でも多くの人が自らの間違いに気付き、迷いから正しい道へと連れ戻され、心に平安が訪れますように。わたしの人生の主人は私ではなく、神なのですから、私はその御心のままに生きます。今日も一日の糧をお与え下さい、あなたの道をお示し下さい、またそれを聞き従える謙虚な自分でありますように。
カテゴリー: エッセイ | コメントする »
投稿者: akizukiseijin : 6月 19, 2009
道徳において、人は謙虚であるべきだと説かれている。謙虚さとは、他人に対して自らへりくだること、すなわち他者を尊重することを意味する。でも、考えてみればこの教えはこのままでは極めて根拠が薄い。そのため、社会では個人の裁量に任されていて、謙虚にする人はするし、そうしない人はしない。だから、現代の人間関係は一向に円滑になっていかない。ここに私たちの社会の混迷の一端があるといっても過言ではない。
では、なぜ現代は心の謙虚さを失ったのだろうか。この問題を私自身の経験を通して考えてみたい。私自身ものを書く必要がら、毎日多くの書物を読み、知識を吸収し、思考する。そして、世の中を批判的に見て、一般的な通念を疑うことを常とする。そのため、だんだん不平家になり、世の中を儚んだりする。酷い場合は、自分だけが真理を手にし、一番偉くなったように思えてくる時すらある。
しかし、これは言うまでもなく大きな間違いである。まさに傲慢という病にかかっている。あなたはジョージ・ルーカスの『スターウォーズ』という映画をご覧になったことはあるだろうか。その第二作目「帝国の逆襲」で、私のお気に入りの登場人物ジェダイマスター、ヨーダが次のような会話をする重要なシーンがある。
フォースの師であるオビワンを失った主人公ルークは、導かれてこのヨーダのもとに教えを乞うためにやってくる。惑星に降り立ったルークは、彼を探し当てるがはじめはそのみすぼらしさに半信半疑になる。そして、「あなたがあの偉大な戦士マスター・ヨーダですか」と聞くと、ヨーダは次のように答える―「「偉大な戦士」か、でも人は戦いで偉くはならない」。おそらく、ここでヨーダは、強いフォースを持ち、戦士になることは重要だが、まず心を学ばなければ、それを偉大さとはき違え人は傲慢になる。その結果、いつか道を踏み外し、ダークサイド(暗黒の支配)に身を委ねてしまうと言いたかったのだろう。
同様にどんな分野であれ、学びつづけていく人はまず心を学ばなければならない。学んでいけば学んでいくほど傲慢になり、人格を歪めていくくらいなら、はじめから学ばぬ方が良い。なぜなら、知識があって高慢な人と、知識がなくても満たされ心穏やかな人と比べれば、後者の方が人々を元気づけたり、良い感化を与えることによって、世の中を明るくしてくれるからである。私は今の日本が小利口な知識人の悪の支配に染まってしまっているように思えてならない。
それならば、一体我々はどうするべきなのだろうか。私が思うに、他人への批判の背後にあるのは悪意や嫉妬ではないだろうか。裏を返せば、自分が偉くなりたい、中心に居座りたいという虚栄心ではないだろうか。それとは逆に、本当に重要なのはむしろ「誉める」ことではないだろうか。なぜなら、誉めることの背後にあるのは、人に対する温か味であり、愛情だからである。愛なくして、子供や他人の欠点ではなく、長所を認め、伸ばしてあげようという気になるだろうか。
また誉めるという行為が大切なのは、自分が謙虚な姿勢でなければ決してすることができないからである。自分が謙(へりくだ)って、すべての他人を自分より優れたものと見なし得てはじめて人は誉めることができる。誉めることはすなわち愛であり、そして愛とはすなわち謙譲なのである。
このことを教えてくれるのは新約聖書に描かれた神の愛である。神は人間を愛するがゆえに、自分の独り子を地上に遣わした。そのナザレのイエスは、高慢になるどころか、弟子たちの足を自ら洗い、最後には人々の罪を背負って十字架に架けられた。この神の愛、アガペー(無償の愛)を想う時、神ですら人間に対して謙られたのだから、人間が他人に対して謙れない理由が何処にあるだろうか。
最後の晩餐でイエスは弟子たちにこう言い残している。私があなた方を許したように、あなた方も互いに許し合いなさし。そして、私があなた方をこれほどまでに愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい、と。この最後の教えこそは、閉塞感に覆われた世の中で、その雲間を突き抜けて地上に差し込む一条の光ではないだろうか。愛という泉から湧き出るように、謙虚に、許し合い、誉め合う社会へと一人でも多くの人が立ち戻ることを心から祈りたい。
カテゴリー: エッセイ, 宗教 | 4件のコメント »
投稿者: akizukiseijin : 6月 13, 2009
現代人は老いも若きも、男も女も、豊かで安定した生活を追い求める。無論それ自体は間違っていないし、私とて同様である。ただし、そうした現代の暗黙の価値基準に執着するあまりに、そこから毀れ堕ちた人を蔑む社会になってしまってはいないだろうか。またそのコインの表と裏である同情からもたらされる救済措置に果たしてどんな効果があるのだろうか。私たちが市民として成熟していくためには、もう少し違った考え方が必要とされているように思われるのだ。
私が聖書を読んで間もない頃、最初に興味深いと感じたのは次のような逆説(paradox)だった。すなわち、生活に困窮し打ちひしがれた人々を憐れんではいけない。なぜなら彼らは私たちより優れた宝を一つ持っているから。それは言うなれば、最底辺に立つ者が社会を見上げる時の視線であり、感性の鋭さである。例えば、人が人を踏む時、踏んだ方は痛みを感じない。それを感じるのは踏まれて苦しんでいる者の方である。そこに社会の弱者への偏見や無理解の源泉があると同時に、なぜイエス・キリストはこの貧しき人々にだけ真理を語られたのかの秘密がある。ここで新約聖書「マタイによる福音書」から次の有名な一節を引用しよう。
心の貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。
柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。
義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。
あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。
心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。
平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。
義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
…。(※)
上記の引用と同様に、聖書の中にある「富んだ者が神の国にはいるのは、ラクダが針の穴を通るよりも難しい」というイエスの言葉は、単に社会的弱者の肩を持っている社会改革者という立場で解釈してはならない。そこには、弱者の繊細な感性のみが知り得る人間と社会の実相があり、それゆえ神の言葉に対して彼らの耳がつねに開かれていることを表現しているのだと見なすべきである。
私自身自らの体験からこのことの恐ろしさをしばしば痛感させられている。それは自分が方向性を見失い、自問自答を繰り返している時には逆に感性も研ぎ澄まされ、あらゆる景色や人の言葉が身にしみて感じられるのに、いったん安定した生活や幸せを手にしてしまうとすっかりそれを忘れ去ってしまい、言葉も心に響かなくなるからだ。
そのことが最も端的に表れるのは私にとって詩を書く瞬間である。以前は、あんなにも深く心に突き刺さってきた風景や言葉たちが、もはや心の網に引っ掛かってこないのである。このときほど私は何かを得たとき、同時に何かを失うということに愕然とする瞬間はない。
かつて腐敗しかかっていたユダヤ人社会の中で、小さく貧しくされた者とともに語らいながら、イエスはかくして宗教改革家であると同時に社会改革家になったのである。この両義性にこそ注目すべきである。そこにはそうでなくてはならない必然性があった。彼は自らも傷ついた者が持つ眼差しと感性を知った上で、真理を語り、社会を改革したのである。だからこそ、彼の言葉は貧困格差や抑圧的な権力社会への痛烈な批判力を永遠に失わない。
まさしく支配者が自らの富と権力を誇った瞬間に、真理は、知らず知らずのうちに被支配者の側に移動してしまうのである。それは別に同情とかヒューマニズムからではなく、哲学における弁証法的な問題としてそうなのである。これは政治や経済や社会に当てはまるばかりでなく、我々個々人のケースにも当てはまるだろう。
このことを踏まえたとき、我々はもっと他者に対して謙虚であらねばならないのではないかと、そう思わずにはいられない。なぜなら私たちが優位だと思っているまさにその瞬間に、その位置が逆転して、本当に大切な幸せの青い鳥を見失ってしまうかもしれないからである。
【注記】
※日本聖書協会『新約聖書』(1965、10頁)―マタイによる福音書、第5節、第3節~10節。
カテゴリー: エッセイ, 宗教 | 2件のコメント »
投稿者: akizukiseijin : 5月 12, 2009

“わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである。”―新約聖書、ローマ人への手紙、第一四章、第八節
死に値する何かを持たない人は、同時に生きるに値するものをも持たない。これはおそらく人類普遍の真理であろう。それはかつては家族であり、村であり、会社であり、国であった。
しかし、それら共同体が崩壊した今日の日本においてその心の真空を埋めるものとは何か。物質的豊かさを超えて、彼らの生きるよすがとなれるものはあるのか。つまり、長い人生の途上で、辛い時、悲しい時、絶望した時、彼らを支えてくれるものはこの世に存在するのか。ましてや働く機会を奪われた人間は、自分の存在をどう保つことができるのか。
だからといって私は一人の信仰者として、あの世に救いを求める宗教やテロの風潮に与したくはない。ただし、この切実な問いそのものを無視するインテリゲンチャには批判の矢を放つだろう。現代人の心の真空を「闇」が占めるのか、それとも「神」が占めるのか。いいかえれば憎しみが占めるのか、それとも愛が占めるのか。いま日本人が直面する危機の本質がここにある。
戦争を唯一の希望と見なすような現代の黙示録(アポカリプス)を退け、新しい共同体を生み出すために私たち一人一人に何ができるのか。これを各人が胸の内で問うていくべきではないだろうか。もし社会が変わらねばならないなら、対立や争いを恐れるべきではない。むしろ、平穏の下に隠された差別や抑圧を恐れよ、とイエス・キリストは聖書を通して我々に語りかけている。(Amen)
カテゴリー: エッセイ | 2件のコメント »
投稿者: akizukiseijin : 12月 4, 2008

独り海辺を歩いていると、昔の少年時代の思い出や友の顔が浮かんでくる。
期待と回想が交互に私の胸に迫ってきて、ふと足を止める。
自分の半生を顧みて、自分が何を求めて歩んできたかと問いかける。
私はただこの時代に振り回されただけだったのか、それとも、自分自身を見出したのか。
私はいつの時代に生まれても変わらない自分でありたい。
それは自由を求めての旅だと言えるのかもしれない。
私は人間が好きだ。幸せになろうと必死に努力して、転んで、泥にまみれて、
悔しくて、泣き、そして笑う。 正しいことばかりではなくて、間違いも犯す。
だが、こうしてみんな生きている。すべては神聖な存在だ。
風に漂いながら、美しい海の横顔に触れて、砂浜を歩きだす。
砂を口に噛みながら、唄を歌っていると、すれ違う人が微笑んでいる。
恥ずかしさを隠すように、何気なく海と空を眺める。雲ひとつない。
そうだ、あなたはいつもそばにいてくれた。
限りない悲しみの青。限りない命の青。限りない精神を秘めた青。
いま、この大海原に投げ出されたらどんな気持ちだろう。
きっと、叫んでも、誰も助けてはくれない。
絶対的な孤独のなかで、何もかもどうでもよくなって、精神も肉体も一点に収斂していく。
そこが私が生涯探し求める、久遠の海に浮かぶ魂のふるさとなのだ。
(2008.12.4 秋月誠仁)
カテゴリー: エッセイ | 1件のコメント »
投稿者: akizukiseijin : 11月 17, 2008

明治から大正にかけて数々の名作を残した夏目漱石の作品を読んでいると、ふと疑問に思うことがある。明治や大正といえば世の中は政治の季節である。血生臭い事件が相次ぐ中で、彼の作品の中にはなぜか政治的なテーマは避けられているように見える。帝大卒ゆえ労働者の苦しみを知らなかったと言うのはたやすい。
しかし、彼ほどの知識人が全く社会主義に関心を持たず、ノンポリであったなどということが果たしてあり得るのだろうか。むしろ、漱石は自らの著作に没頭していたという方が正鵠を得ている。彼は、自らのテーマにとり憑かれ、それと必死に格闘し踠いていた。その結果権力や金と無縁な生活に入らせ、時代の制約をも超越させた。だから、私たちは漱石を読んだ時、現代の作家が書いたかのような感動を覚えるのである。
現代人は、何もかも急ぎ過ぎている。何かに役立とうとするに急で、自分自身を見失っている。だが、あらゆる歴史のなかで自分自身を見失った人間が何か偉大な事業を為し得たことはおそらく一度もあるまい。むしろ、改革や革命の情熱に駆られた人間は破壊しかしない。自分自身を見つめることのできる人間こそが建設者である。彼は時代を超越し、そして、普遍的な何かを我々に残すのだ。我々はそういう人間を待ち望んでいる。
カテゴリー: エッセイ | 2件のコメント »
投稿者: akizukiseijin : 11月 13, 2008
人間はいつも時代の風に翻弄されながら生きている。誰しも自分の運命を自覚しているようでありながら、糸の切れた凧のようにただ世の中を彷徨っているだけのようでもある。
ヘルマン・ヘッセは、『デーミアン』という作品で自分自身の芸術への道がどんなものであったかを一人の少年の半生に託して描いている。その冒頭で、次のように述べる。「どんな人間の生活も、自分自身への道であり、ひとつの道を試みることであり、ひとつの小径の暗示である。どんな人間でも、百パーセントその人自身になりきったというためしはない。そのくせだれもかれも、そうなりたいと努めている」。
つまりヘッセは、人生とは自分自身への終わりのない旅なのだと述べている。彼は芸術家を念頭に置いていたが、同時にこれは学問をする人間の姿でもある。一見、学問は自然や社会や歴史といった外にある対象を扱うかに見える。しかし、本当は自分の中からテーマを掘り下げてゆくものなのである。そもそも何をテーマにするのかという選択をするのは自分自身である。その自分の追及しているテーマは、必ずどこかで現代の出来事と交差する。そこに自分の持っているテーマの<現在性>が生まれる。その時、人々の心と頭脳を打つ作品が出来上がるのだ。
だから不思議なことに学問を千鳥足で進めてゆくとまるで自分自身の正体を明らかにしているような錯覚を覚える。数多の先人の書いた書物と対話するなかで、自分が深いところで対決しなければならない人、また自分と同じ考えを持つ人と出会う。それらを通して本当に自分のもつ考えが正しかったのかが浮き彫りにされてくる。言い換えれば、自分の思考の強さとそれ以上に弱さが自覚されてくる。そして驚くべきほどに今の自分が持つに至っている考えが、少年時代の経験に淵源していることに気づく。こうしてもう一人の自分と出会っていくのが学問を探究する喜びの一つなのかもしれない。
確かにそうはいっても時代の風は冷たく激しい。人は誰しもその前に無力だ。だからせめてこの時代から最大限利益を引き出せる生き方とは何かを考えるべきだと言う人もいるだろう。
だが私はどうしようもなくこの時代が生みだした人間でありながら、同時にどの時代においても変わらない自分にいつか到達し得ると考えている。あたかもツァラトゥストラが「これが生だったか、よし、それならもう一度!」と叫ぶかのように、もし何度生まれ変わってもまた同じ自分になるだろうというところまで自分自身を究め尽したいのだ。
ニーチェの永遠回帰の思想は難解なことで知られているが、本当はこうした単純なことを述べているのではあるまいか。ふと、こんな考えが頭をよぎった。自分をとことんまで明らかにした人間は、時代に翻弄されることなく、いついかなるときにも変わらない自己を見出す。それこそ最高の生の肯定であり、意味もなく目的もない無情な時代を悠々と耐えていける。それを彼は「超人」と名づけたかったのかもしれない。
だとすれば個人を放棄して、民族という幻想の共同体に身を捧げることを選ぶべきだったろうか。むしろ、個人の力をどこまでも強め自らの限界を乗り越えさせてゆくべきだったのではないだろうか。私には自己を放棄することはこの人生という長い苦闘をただ楽に切り上げることのみを意味しているように思えてならない。自らを放棄する人間は未来に背を向け、過去を憧憬する。それに対して私は過去を重視しつつも、なお未来の可能性に賭けたいのだ。
カテゴリー: エッセイ | コメントする »