- 出版社/メーカー: ソニー・ピクチャーズエンタテイメント
- 発売日: 1999/12/24
- メディア: DVD
アメリカの魂を、良心を求めた男たちの生き様を鮮烈に描いたアメリカン・ニュー・シネマの代表作
メキシコから密輸したマリファナで大金を得たキャプテン・アメリカとビリーは、チョッパーの大型バイクに乗ってロサンゼルスを出発、当てのない旅に出る。
2人が求めるのは「自由」。だが、彼らの長髪にヒッピースタイルという姿を、全ての人々が認めているわけではなかった。
行く先々のモーテルで宿泊を断られ、野宿を強いられる日々。ラスベガスでは「無許可のデモを行っている。」と理不尽な言い掛かりをつけられ、留置場に入れられてしまう。だが、たまたま居合わせた酔っ払いのチンピラ弁護士ジョージ・ハンセンに助けられ、3人はニューオリンズを目指して一緒に旅をすることになる。
途中、ハンセンは2人に「自由を説くことと、自由であることは違う。誰もが自由を語るが、自由な人間を見ることが怖いんだ。」と語り、彼らは絆を深めていく。
しかし、彼らの存在を快く思わない保守的な連中に寝込みを襲われ、ハンセンは殴り殺されてしまう。キャプテン・アメリカとビリーは、ハンセンに連れて行ってもらうはずだった売春宿を目指し旅を続けるが、更なる悲劇が2人を待ち構えていた・・・。(AXN) http://www.axn.co.jp/movie/easyrider.html
序論
私は、アメリカには絶えず二つの「自由」が交わることなく、社会の表層と深層に分離して存在していると感じてきた。例えば、州の自治権を主張する「共和主義」と連邦政府の権限の拡大を求める「連邦主義」の長い対立の歴史がある。そして、南北戦争に至った南部の封建主義と北部の資本主義との対立がある。どちらも各々の「自由」を主張したが、その内実は決して同じものではなかった。
アメリカの国民的詩人ウォルト・ホイットマンもまた、代表作『草の葉』の序文の中で、アメリカの民衆の中に揺ぎ無い民主主義の理想をうたう。しかしあらゆる抑圧に反対する立場から南部の奴隷制の廃止を支持したものの、彼にとって南北戦争の勝者である北部の支配は別の形の抑圧に他ならなかった。
第1部
ベトナム反戦や学生運動が激しかった1969年にアメリカである映画が封切られた。この映画の名は「イージー・ライダー」(easy rider)である。内容は冒頭にあるとおりだが、ここにはアメリカの二つの自由精神の葛藤が見事に描き出されている。キャプテン・アメリカとビリーと一緒に旅に同行したハンセンらは、先々で宿泊を拒否され仕方なく野宿することになる。その時、アメリカの「自由」についてハンセンは印象深い台詞を述べている。それは次のようなものである。
「(人々は)君らを怖がっているんじゃないよ。」
「君らが象徴しているものを怖がっているんだよ。」
「奴らは俺たちを散髪の必要な人間としか見てねんさ。」
「君たちが象徴しているものは「自由」だよ。」
「自由のどこがいけないんだ。結構なことじゃねぇか。」
「確かにそうだが、自由にも二通りある。」
「君らの言う自由と奴らのいう自由とは似て非なるものだ。」
「彼らは自由というものをマーケットでものを買うように買うわけにいかないことをよく知っているんだよ。」
「でも冗談にも、奴らが自由じゃないなんて言っちゃだめだよ。」
「そんなことを言ったら、みんなは人殺しをしてでも自分達が自由だってことを証明しようとするだろう。」
「なるほどみんな「個人の自由」とかについてよくしゃべるよ。」
「しゃべるのはそら楽だからね。でも口先だけだよ。」
「違う自由がそこに現れると怖くてしょうがないんだ。」
「怖がってるって顔じゃない。」
「そう、かえって凶暴になるんだよ。」
このシーンは後の悲劇を予兆するかのようである。その直後、ハンセンはこの土地の住人に殴り殺され、他の二人も住民に射殺されて観る者を突き放すようにしてドラマは幕を閉じる。日本でも60年代の安保や学生運動に加わった世代なら、運動の挫折が政府の弾圧と大人たちの無理解からくる疎外感にあったことなどが思い起されるかもしれない。
いずれにしても私がここから読み取りたいのは、60年代に保守的な南部の農村や北部の資本家やビジネスマンが自分たちの体制の枠組みの中での「自由」を擁護するのに対して、若者たちのそれこそアナーキーな「自由」がマグマのように渦巻いて既成の秩序を乗り越えようとしていたことである。
第2部
日本でも60年代の安保や学生運動が沈静化し、資本主義的且つビジネスライクな生き方に批判的な左翼や学生セクトが崩壊した。さらに90年代になると冷戦も終結し、アメリカ的な自由競争、市場万能主義、いわゆる新自由主義が政府やメディアで支配的となった。こうした一連の流れの中で若者は右翼化し、朝日・岩波といったかつての左翼の権威的メディアを激しく批判している。まさしく日本では、雪崩れの如く押し寄せるアメリカ=資本主義に対して、それを支持する若者とこれを阻止しようとする官僚やマス・メディア側とのせめぎ合いが続いている。
しかし、ここにはある遠近法的な倒錯が存在している。なぜならアメリカは必ずしもイコール資本主義ではない。かつてと同様に流入する移民がコミュニティーを形成し、モザイク的な社会構成をなしている。さらに重要なことに、この国には党を持った共産主義者は少ないとしても、60年代の学生闘争の忘れ形見とも言えるリバタリアン/アナーキストの群が生息している。1999年のWTO(世界貿易機関)会議に反対したシアトルの反グローバリゼーション・デモはその潜在勢力が自らの存在を顕在化したほんの一例である。
第3部
では「リバタリアニズム」(自由至上主義)とは一体何を指すのであろうか。これに関してアメリカにおいても誤解があるようだが、日本でも例外ではない。一般にそれは右翼的で資本主義賛美の思想と見なされている。しかし代表的論客である経済学者ハイエクを見れば分かるように、それはむしろヨーロッパ大陸の社会思想の伝統でいえば、「初期社会主義」や「ユートピア社会主義」の思想である。ハイエクにとって、いまの資本制経済の下では個人の「自由」は、不十分にしか守られていない。したがって、彼はあらゆる規制を撤廃し、人々が自発的にルールを作るのに任せる、いわゆる「自生的秩序」を提唱した。彼もまたマルクスとは異なる形ではあれ、資本主義を超える社会を志向していたのである。この批判の契機が見失われれば思想は思想でなくなってしまう。
こうしたリバタリアン的水脈は、60年代70年代のアメリカのコンピューター産業の黎明期、東部エスタブリッシュメントの雄IBMに挑んだ西の雄シリコンバレーのインテル社やアップル社、そして現在で言えばマイクロソフトに対抗するGoogleなどの中にも見出すことができる。自らのアイディアを形にし、仲間に認められることを何よりの喜びとするエンジニアやプログラマーは時にビジネス一辺倒の経営に反発する。そこで彼らは会社を辞め、ベンチャーキャピタルの力を借りて自分たちの事業をゼロから立ち上げる。こうした循環がシリコンバレーでは繰り返されてきた。その意味で、シリコンバレーの精神は、資本主義的というより、「脱資本主義的」(trans-capitalist)なものであるといえる。もちろん着地点はビジネスであるが、同時にそれを超えようとする意志に突き動かされてもいるのである。
結論
ここまで私は、アメリカ建国以来の二つの自由の系譜―権威的自由と民主的自由―が60年代から今日まで脈々と受け継がれ、社会の表面に突如として革命的運動や起業家精神として現れることを素描してきた。社会的通念とは異なり、アメリカの資本主義を支えているのは、個人の独創性を信じ、より良い社会やコミュニティーを自らの手で築き上げていこうとする脱資本主義的な力なのである。その点で、彼らが理想とするウェブ上のオープンな空間は、「サイバーコミュニズム」(電脳共産主義)とすら呼び得るものである。
アメリカでは80年代にコミュニティーが加速度的に崩壊し、その隙間をインターネットがどのように埋めるのかが重要な課題となっている。日本でも90年代から2000年以降、会社共同体や地域や家族は否応なしに薙ぎ倒されている。私たちは帰属するコミュニティーの喪失と引き換えに自由を手にした。さらに手にした自由はGoogleという名のシステムに一極支配されたサイバースペース(電脳空間)である。テクノロジーは確かに人々を解放するが、同時にある種の専制へ道を拓きもする。
したがって、我々が認識すべきは、いずれかの自由がより優れているかではなく、ましてやアメリカを賛美することでもない。アメリカは絶えずこの二つの自由に引き裂かれているということ。そして世界でも稀なリーダーなき民衆の国として誕生したアメリカほどこうした矛盾が社会に亀裂をもたらす場所はないと知ることである。今後、環境、エネルギー、テロとの戦争、ITなどを通してその矛盾は、二一世紀の世界全体を巻き込む恐れがある。このエッセイは我々が明日を生き延びるための唯一の航海図として書かれたのである。
参考文献
■リバタリアン社会主義(アナキズムFAQ):http://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/faq/faqi1.html
■池田信夫ドット・コミュニズム:http://hotwired.goo.ne.jp/bitliteracy/ikeda/020925/

デカルト以来、、考えることとはすなわち常識を疑うことである。社会科学ではこれを「批判精神」(critical thinking)と呼び、まず最初に叩き込まれる。しかし、日常の生活の中で人はいかに考えずに過ごすように仕向けられてしまっていることだろう。マス・メディアもその悪しき一翼を担っているが、学問でも前提そのものを疑える人はまれである。かつて文芸批評家の小林秀雄はこう述べている。言語学者には「言語」に対する驚きがなく、同様に経済学者には「商品」に対する驚きが無い。この驚きの前に立ち止まれる人こそ批評家であり哲学者であるという響きがここにはある。
