投稿者: akizukiseijin : 11月 8, 2009
聖霊の働きによって固有の存在様態(Seinsweise)は、我と汝の交わりである。したがって聖霊の視座から、キリスト教の主題である愛について論ずることが可能になる。愛は自己を否定して他者のために生きることであるが、これがアガペーであり、自己の主張を貫くエロースとは異なる。しかし、アガぺーもエロースも、人間にとって生得の性質ではなく、人間に対して出来事として生起する。
換言すると、アガペーは神の像に相応しい人間のあり方として生起するのに対して、エロースは神の像に逆らった人間のあり方として生起する。第八章「神の選び」の中で言及したように、人間の本来的あり方は交わりと和解であり、孤独と滅びは人間の非本来的あり方であるが、この二つのあり方がアガペーとエロースに対応する。エロースは、神と隣人に対して自己を閉じている人間のあり方である。そして孤立した人間にとっては、愛はエロースであり、この愛の主体と客体は同一の自我である。したがって自閉的な人間にとっては、神も自閉的な存在と映る。その結果、エロースのあり方をする人間は自己中心的な生き方をし、神も自分とは関係のない空虚な存在と考える。しかし神は実在している。つまりキリストの愛に応答しない孤独の人間に対しては、神は自己を隠している事実に、われわれが気づかないだけのことなのである。
さてアガペーは、自己を他者へ与えることであるが、他者の中に自己を失うことではない。なぜならば、他者の中に自己を失うならば、主体と客体は再び同一となり、エロースのあり方に逆戻りするからである。真の意味で自己を他者に与えることは、脱自的に生きることであり、隣人との交わりの中に脱自的に生きる人間の存在根拠は三位一体の神の交わりである。そして人間のあり方が神のあり方を反映し、神の像(姿)を実現するまでに人間を導くのは聖霊なる神である。聖霊は、自発的な愛の行為へとわれわれを解放し、神と人間、人間と人間の交わりを確立する。この愛と、交わりが神の創造と救済の本質であり、愛は過去、現在、将来を結ぶ絆(きずな)なのである。―大島末男 『カール・バルト』(清水書院、212~3頁)
カテゴリー: ノート | コメントする »
投稿者: akizukiseijin : 11月 4, 2009
詩は、言葉の一つの現象形態であり、したがってその本質からして対話的である故に、いつかどこかの陸地に、もしかして心の陸地に打ちあげられるかもしれないという、かならずしも希望にみちているとはいえない信念のもとに託された投壜通信といったものなのかもしれません。詩はこうした点でも途上にあります。詩は何かを目指しているのです。―パウル・ツェラン 「ブレーメン文学賞受賞講演」より
マンデリシュタムはそこで詩人とジャーナリストの言葉の違いに言及する。詩人の言葉は誰にも向けられていないのに対し、ジャーナリストのそれはいつも具体的な一定の人々、同時代人や同世代人、隣人に向き合い、また一般社会よりも高いところに立って教え導くというのである。しかし、詩人は卑近な相手は拒むけれども、未知なる人、特定できない遠くの人、後から生まれる読者に賭ける。不可視の、しかしながら存在する対話者を必要とするのである。対話者としては誰もいないけれども誰かいる、という否定と肯定の間に揺れる詩の、浮遊する中間者的あり方をマンデリシュタムは投壜通信のイメージで描き出す。
ひとには誰にも友人がいる。何故詩人は自分にとにかく一番親しい人間である友人を相手として書いてはならないのか。―船員は生きるか死ぬかの時に、自分の名と自分の運命を書いたものを壜に入れて封印し、海中に投げ込む。長い年月がたった後に砂丘を歩いているとき、私はそれを砂の中に見つける。私は手紙を読み、今になって行方不明者の遺志と事件の日時を知る。私にはそうする権利があったのだ。私は他人宛の手紙は開封したことがない。壜の中にあった手紙はその発見者宛だったのである。私は壜を発見した、ということは私が謎の隠れた受取人というわけである。
「僕の才能など取るに足りない、それに僕は有名でもない、/でも僕は生きている―/僕の存在を貴重に思ってくれる/誰かがこの世にいてくれるから。/僕よりはるか未来のひとが僕の詩のなかにそれを/再び見つけ出す、すると僕の魂は―/誰がそれを知りえよう―そのひとの魂と結ばれる。/僕は友人は僕の世代に見つけたが、/読者は未来に見出すだろう。」
バラチンスキーのこの詩を読むと、私はそうした投壜通信を手に入れたような気持ちになる。途方もない原始の力のすべてをそなえた海のはたらきにより、それは私の手に届いたのである。―海がこうして力を貸すことは予定された運命であり、神の摂理がここにはたらいたという感じが発見者の心をとらえる。船員は壜を海中に投げ、バラチンスキーは彼の詩を手放す。両方の出来事にとって表現の動機は二つとも完全に同じで共通する。その手紙は詩と全く同じく、特定の人に向けて出されたものではない。それにもかかわらず両者は受取人をもつ。手紙にとってそれは偶然砂の中に壜を発見する人であり、詩にとっては「未来の読者」である。引用したバラチンスキーの詩句を読んで、例えば思いがけず名を呼ばれたときのように嬉しさと不気味さがまじり合った戦慄が背すじを走らない人がいたら知りたいものだ。―森治 『ツェラーン―人と思想』(清水書院、1996年、157~8頁)
カテゴリー: ノート | コメントする »
投稿者: akizukiseijin : 10月 28, 2009
日本人はよく「純日本人」、「純粋な日本語」などという言い方をする。例えば、日本の作家三島由紀夫は日本の文化を外国の影響から防衛すべく呼びかけた『文化防衛論』を著した。それは日本の愛国の徒に快く響く音色を持っている。
しかし、本当に一国の文化というものが、他からの影響を受けずに今日まで存在しえたのだろうか。もちろん保守主義者は、日本的な美意識や様々なところに日本の日本たる本質を見出すだろうが、その本質すらもがすでに疑わしい。なぜなら、概念や観念で捉まえられた本質というものすらが、差異を排除して成り立っているからである。
では、日本の歴史において、切り捨てられてきた「差異」とは何か。私見では、それはキリスト教(景教)の影響であり、朝鮮の文化的影響(渡来文化)などである。少し調べただけでも、日本の鎌倉仏教には景教(中国におけるキリスト教の呼び名)からの影響を窺わせる要素が多数含まれている。自力本願から他力本願(ひたすら念仏を唱えるだけで救われる)への価値転換、そして親鸞の悪人正機説(「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」)。これらは難解な律法ではなく、「ただキリストの福音を信じる者は救われるという」新約の新しい教えや、「富める者が神の国に入るのは駱駝が針の穴を通るよりも難しい」という思想といかに酷似していることか。
この影響関係の真偽のほどは今は性急に判断すべきでない。しかし、あらゆる時代を通じて、革新的なイノベーションや価値転換が純粋に一つの共同体の内部から自然発生的に生まれたかのように見なすことは果たしてどこまで正しいのだろうか。むしろそれは権力や制度や組織を通じて意図的に隠蔽されたものなのではあるまいか。自分の身辺を考えてみても、優れたアイディアは、自分一人で頭を抱えていても湧いてくるものではない。他人とのふとした会話や出来事が引き金となって、自分の思考がスパークすると考えた方が自然だろう。ならば、あらゆる文化や歴史の根底には世界交通によってできた外部の文化との接触の痕跡が見出されるにちがいない。
かつて評論家の加藤周一は日本文化を「雑種文化」と規定したが、本来雑種でない文化などあり得ない。おそらくキリスト教が仏教その他に与えた影響と同程度に深く、イスラム教や東方文化の影響がキリスト教には流れ込んでいると見るべきだろう。したがって、21世紀の知識人の課題は自国の「純粋さ」を是認することにあるのではなく、あらゆる事物の根底に「多様性」や「異種混交」を再発見していくことにあるではないだろうか。一見美しい「純粋さ」とは実は他者を排除することによって成り立つイデオロギー(ideology)に他ならないからである。
カテゴリー: エッセイ | 2件のコメント »
投稿者: akizukiseijin : 10月 28, 2009
人間がもし現代人のように、孤独を弄ばず、孤独を楽しむ演技をしなければ、正直、率直におのれの内面と向きあうならば、その心は必ず、ある存在を求めているのだ。愛に絶望した人間は愛を裏切らぬ存在を求め、自分の悲しみを理解してくれることに望みを失った者は、真の理解者を心の何処かで探しているのだ。それは感傷でも甘えでもなく、他者にたいする人間の条件なのである。
だから人間が続くかぎり、永遠の同伴者が求められる。人間の歴史が続くかぎり、人間は必ず、そのような存在を探し続ける。その切ない願いにイエスは生前もその死後も応えてきたのだ。キリスト教者はその歴史の中で多くの罪を犯したし、キリスト教会も時には過ちに陥ったが、イエスがそれらキリスト教者、キリスト教会を超えて人間に求められ続けたのはそのためなのだ。
原始キリスト教団のみじかい歴史を調べる時、私がぶつかるのは、いかにそれを否定しようと試みても否定できぬイエスのふしぎさと、ふしぎなイエスの存在である。なぜこんな無力だった男が皆から忘れ去られなかったのか。なぜこんな犬のように殺された男が人々の信仰の対象となり、人々の生き方を変えることができたのか。このイエスのふしぎさは、どれほど我々が合理的に解釈しようとしても解決できぬ神秘を持っている。その神秘こそ今度も私の書きえなかった「彼とその弟子の物語」のXなのである。―遠藤周作 『キリストの誕生』(新潮文庫、p.250-1)
カテゴリー: アフォリズム | コメントする »
投稿者: akizukiseijin : 10月 28, 2009
イエスがこれらの不幸な人々にみつけた最大の不幸は彼らを愛する者がいないということだった。彼らの不幸の中核には愛してもらえぬ惨めな孤独感と絶望とが何時もどす黒く巣くっていた。必要なのは『愛』であって、病気を治す『奇蹟』ではなかった。人間は永遠の同伴者を必要としていることをイエスは知っておられた。自分の悲しみや苦しみをわかち合い、共に涙をながしてくれる母のような同伴者を必要としている。―遠藤周作 『イエスの生涯』(新潮文庫、p.107-8)
カテゴリー: アフォリズム | コメントする »
投稿者: akizukiseijin : 10月 21, 2009
彼らが福音の真理についてまっすぐに歩んでいないのを見て、私はみなの面前でケパにこう言いました。「あなたは、自分がユダヤ人でありながら、ユダヤ人のようには生活せず、異邦人のように生活していたのに、どうして異邦人に対して、ユダヤ人の生活を強いるのですか。」―ガラテヤ 第2章第14節
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。―ガラテヤ 第2章20節
しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架に付けられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。どうか、この基準に従って進む人々、すなわち神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。―ガラテヤ 第6章第14-16節
カテゴリー: アフォリズム, 宗教 | コメントする »
投稿者: akizukiseijin : 10月 18, 2009
かつて福沢諭吉が日本人を評して、急に方向が変わる「一辺倒思考」と呼びました。今の日本人論として語られていることのほとんどが、明治の文献でもそのまま言われていることだと知ってときどき悲しくなることがあります。戦前は天皇崇拝、戦後はアメリカ資本主義崇拝、今再びナショナリズムへと傾斜していることを考えると、思想的・批評的視点を持つ重要性を痛感します。批評とは絶えざる移動と批判に宿ります。日本の価値観を絶対視しないこと。アメリカの価値観を絶対視しないこと。それらの間で考え、価値そのものに揺さぶりをかけることこそ批評だと私は思います。そこに単なる自己対話(モノローグ)ではない、真の他者に開かれた「対話(ダイアローグ)」が始まる可能性があるのです。―秋月誠仁
カテゴリー: アフォリズム | 2件のコメント »
投稿者: akizukiseijin : 10月 14, 2009
私は長い間、ロシアの文豪トルストイの作品群とは距離を置いて思索してきた。なぜなら、彼の農民学校の運動や、私有財産の否定、そしてガンジーに受け継がれた無抵抗主義もさることながら、その純粋さにある危険のなものの兆候を嗅ぎ取っていたからだ。
宗教にせよ、麻薬にせよ、テロにせよ、何かをを唯一絶対の基準として信じることのできる人間は元来純粋で、勤勉なものである。だからこそ純粋な人間は純粋な善人にもなれば、また純粋な悪にもなることができる。昔から狂人と聖人は紙一重などと言われる所以でもある。例えば、映画『セブン』ではブラッド・ピットとモーガン・フリーマン扮する二人の刑事が七つの大罪にまつわる難事件を捜査する。その最後の殺人現場へ向かうシーンで犯人は自分は神の手足となって犯行を行っているのだと告げるセリフが極めて印象的である。
さらにそうした文学や芸術が政治と結びついたとき自体はより深刻さを増す。人は純粋に国家や民族のために死すことこそ美しいというプロパガンダを人々の心に強烈に植え付ける恐れがあるからだ。日本でも宮澤賢治、白樺派の作家などを読むと彼らの純粋さの中に潜む「悪」の存在を否応なく感じてしまう。
本作「クロイツェル・ソナタ」は作者トルストイが自分の中に潜む光と影を抉りだした問題作である。トルストイは、性的欲望こそが、人間の生活の様々な不幸や悲劇、また社会の腐敗の根源であるとみなした。彼は、嫉妬のために妻を刺し殺した男の告白を通して、欲望の三角関係に置かれた男の悲劇を生々しく描き、社会の堕落を痛烈に批判している。確かにそれだけなら巷にありふれている小説に過ぎない。しかし、この小説の本領は、この妻を刺し殺した男の言葉によって、精神的な恋愛関係や夫婦愛、そして女性の社会進出によって可能になった男女平等の結婚観に至るまで冷や水を浴びせかける強烈なアンチ・テーゼなのである。
彼にとって男女の愛とはどんなに神聖なベールで包まれようと所詮は性的なものにすぎない。そして、男は女を性的な対象と見なし、女性もまたそれを常に意識するという奴隷関係でつながれている。だがときに女性は自らの性的魅力によって男を虜にすることによって、逆に男性を支配しようと企てる。その結果、主人と奴隷の関係が逆転するということが起きる。かくして現代は女性の支配する時代なのである。
そして、ここから文明の進歩や人類愛を阻むものは真実をオブラートで包み、偽善に偽善を重ねて夫婦の契りをあたかも神聖なものであるかのように見なす偽りの道徳観なのだと結論する。女性が性的な対象であること、また女性が男性を支配する唯一の武器であることは女性が少し学問を身につけたくらいでは変わらない。そして姦淫するなかれという聖書の教えに従い生きるべきだと説くのである。
この主張に表面的に反論することは容易い。確かに世の中には性的な関係がなくても仲良く暮らしている夫婦やカップルがいくらでもいるからだ。しかし、D・H・ロレンスが『チャタレイ夫人の恋人』で描く様に、この問題の本質はひっくり返ると西洋文明の根源に性的な欲望を抑圧するキリスト教の道徳観があることを批判するファシズムの思想と相通じるものになりはしないだろうか。この作品ではチャタレイ夫人は炭鉱を所有する裕福な貴族と結婚するが、彼が戦争に従軍し負傷し下半身不随となって帰ってくる。彼女は性的に不具になった夫をどうしても愛することができない。そこに野性味に溢れ教養もある労働者階級の青年と出会い肉体的に結ばれる。やがてそれは本物の愛へと変わっていくのである。このようにロレンスは西洋文明を支えるキリスト教や民主主義の中に強者に対する弱者のルサンチマン(嫉妬)を見いだし、それを乗り越えようとしたのである。
一方でトルストイは人間存在の根底に性的欲望を見出した上で、それを否定し、そこから聖書の姦淫するなかれという教えへ向かう。そして他方でロレンスは同様に人間存在の根底に性的欲望を見出した上で、それを肯定し、キリスト教批判へ向かう。どちらもその進み方は異なるが問題の枠組みは全く同じである。つまり、彼らは否定、肯定のどちらにしろ、結局は理性を超えていく無意識の領域に対して排跪するのである。そこにはそれらを解明し、乗り越えていこうとする自己を啓蒙するいわば科学的な態度と言うべきものが欠如している。その時、近代を築いた合理的理性は、自らの過ちによって野蛮へ落ちていく。それこそ真の堕落へと。すなわち、それがヒットラーを生み出したファシズムの正体なのである。
要するに何かを自分の心の拠り所として信じ切ってしまうこと、つまり、純粋さこそが「悪」なのである。私はそれを左翼のアナーキスト(無政府主義者)にも、右翼の民族主義者やファシストの中にも同様に見出し得る。そして、我こそは神の言葉を正しく理解し、人々を導くことができると確信し、あたかも神を自己の所有物にしている宗教者にもその純粋な悪を見出す。彼らが神の教えの下に、ナショナリズムを包み隠し、朝鮮や中国の人々への攻撃的な感情を燃やすなら、彼らはもはや純粋な「悪」である。
思索者はたえず自己を疑いつつ、同時にともに戦う未来の友への信頼を燃やし続けねばならない。たとえそれがどんなに困難な時代であったとしても、決して安易に既成の理念や理論に身を任せ切ることがあってはならない。我々が求めているものとは、信仰者にとって神がそうであるように、生涯にわたって追求していくべき祈りのような永遠の対象なのだ。
カテゴリー: 文芸 | 2件のコメント »
投稿者: akizukiseijin : 10月 14, 2009
カテゴリー: 音楽 | コメントする »
投稿者: akizukiseijin : 10月 14, 2009
インテリに対する反感は、また学問を排する立場である。知らぬものが、知っているものを排撃するのだ―清沢洌 『暗黒日記』
カテゴリー: アフォリズム | コメントする »